2017年12月27日水曜日

エホバに逢わせてあげましょう 〜あなたが信じていた神は、こんな姿をしているのです〜



 2017年もそろそろおしまい、ということで、新年からは新しい人生を過ごそうと決意しておられる方も多いことでしょう。


 今年は、このブログもあまり更新できなかったので、2018年はもう少し有益な記事を増やしていけたらなあ、と思っています。



 さて、タイトルどおり「さよならエホバ」ということで、今年の締めくくりは、



 エホバに会っておこう!



というマニアックな内容でお届けします。


 エホバの証人を辞めた、あるいは辞めようとしている辞めJさんには、せっかくですのであなたが全知全能の神として心底崇拝していた神様が、いったいどんな姿をしているのか、というお話にはとても興味があることと存じます。



 というわけで、エホバにかつて最も近かったとされる古代の中東地方の人たちが、



「エホバはこんな姿をしているよ」



と描いた像がありますので、紹介しておく次第です。







じゃん!


↑これがエホバを描いた、もしかすると唯一かもしれない絵です。



 この絵そのものはウィキペディアにも載っている有名なものですが、ウィキペディアの解説では、多少わかりにくいところがあるので、補足しながら読み解いていくことにしましょう。


(出典 ウィキペディア”ヤハウェ項” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7



  シナイ半島のクンティレット・アジュルド遺跡からみつかった土器(ピトス)に描かれていたこの絵がなぜエホバであるとわかったかというと、実は中央の2体の謎の人物の上部に



「サマリアのヤハウェとアシェラにより私はあなたを祝福する」


と記入してあったからです。


 ただし、この文字が、直接的に2体の人物を指して「こっちがヤハウェ、こっちがアシェラ」と明示しているわけではないので、ウィキペディアでもどれがヤハウェなのかはっきり書いていない、ということが起きているのです。



 この絵を全体的に見て、気づくことがあります。


1)左に牛の親子が描かれている

2)中央に2体の人物が描かれている

3)右に椅子に座った人物が描かれている



 研究者たちの間でも、どれがヤハウェでどれがアシェラなのかは説が分かれるようで、


中央の二人組がヤハウェとアシェラのセットだ

という者もいれば、

左端の牛はヤハウェを象徴している

という者もいます。


  また、椅子に座った人物が「リラ(たてごと)」を弾いているので、


これは音楽に合わせて神が踊っている


と解釈し、古代エジプトの「ベス神」と一体化していると考える者もいるとのことです。


 ベス神は、舞踊と戦闘の神で、羊と羊飼いの守護神です。なるほどエホバっぽい要素を持っていることもわかりますが、その姿は



「頭がでかくて短足で大口で舌を出している」


姿でエジプトでは描かれたというのです。


 たしかに、中央の二人組は、頭がでかくて短足です。



 ちなみに、アシェラというのは、もともとは「エル」の奥さんの神です。それがエルとエホバが混同されはじめたため、


「エホバの妻は当然アシェラである」


と古代ヘブライ人たちにも考えられたのですね。


(ちなみに、エルとバアルの混同も起きたため、アシェラはバアルの妻でもあるわけです)




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 さて、この論考の元ネタはMiksさんのブログ記事が出典なので、もっと詳しく知りたい人はぜひそちらも読んでほしいものです。


アシェラとは何だったのか
http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2010-02-03




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 今日のお話で、エホバは頭でっかちの短足の牛もしくは異形のものであることがわかりました。


 彼のために一生を捧げようと思っていた方には、かなりショックだったかもしれませんが、今日のお話から学んでほしいことは実はそこではありません。



 古代ヘブライ人たちは、あのモーセを激怒させた


「金の子牛」


も「これがエホバだ」と言ったし、エジプトの神ですら「これもエホバだ」と考えていたわけです。

エルもバアルも「全部この際エホバだ」と考えていました。



 終始そんな感じだったので、結果的には王国は滅びてしまうわけですが、懸命なる読者諸君にとってはひとつの自然な疑問が湧いてくると思います。



「え?じゃあ、ほんもののエホバはどれなの?」



と。


 その疑問が出てくることを予想した人物が、実はたくさんいました。それが聖書の記述者たちで、彼らはほぼそれぞれの時代の


「神殿の神官」


だったわけですが、 彼らは中東地方にたくさん存在していた神々の物語を時には合体させたり、時には排除したりしながら



「自分たちの理想像に近いエホバ像」



を著述していった、というわけです。




そのあたりは



さよならエホバ ~心が安らかになりたいあなたのために・エホバの証人から離れる方法~: 【エホバの証人を辞めたあなたのために 4】 唯一絶対神に従わないとマズかった理由は?  http://goodbye-jw.blogspot.com/2016/05/blog-post_70.html


の概出記事をご参照ください。




 結局のところ、エホバは牛であり、頭がでかい短足妖怪であり、そして、全知全能で妬む嫉む神になってしまったわけですが、それらはすべて



「人間が、著述し、考え、想像した神」



 に過ぎません。その時代やその場所、その民族によって、自分たちに都合がよかったり、彼らが信じたいと思った姿で信仰されてきたにすぎない存在だったのです。



 なので、エホバの証人のそれぞれの信仰者が思い描くエホバ像も、好き勝手なものになりがちなのです。


 多くの信者は、自分だけは救ってくれる神として都合よく解釈していますが、そもそもエホバはそういう存在なのですから、仕方ないのかもしれません。




 しかし、そんなイメージの塊のような神に、あなたを救う真の力はあるのでしょうか?



 来年があなたにとって幸せな一年であるように、と心から思います。



2017年9月28日木曜日

エホバの証人の信仰から逃れられた理由 ~聖書を本当に理解する良書~



 両親ともにエホバの証人であった私が、先に一人集会に行かなくなった件は、別のブログでも書いたとおりですが、



<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~ 
 https://satori-awake.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html



この時中学生であった私が考えたことは、「神とはいかなる存在であるのか」ということでした。


こうした、「自分にとって神とはどういう存在か」という疑問や自問自答については、宗教を離れるに当たっては重要な観点なのですが、 それまでの自分というのは必然的に



 教義を基にした物事の捉え方のバイアス



がかかっていますから、 客観的な知識や視点がないと、どうしても教義のほうに引っ張られてしまうことになるわけです。


 中学生の頃の私は、自分なりの視点で神を考察して、とりあえずはエホバの証人の王国会館へは行かなくなったのですが、それでも


「はて、聖書とは、神とは、イエスとはいったいなんだったのだろう」


という疑問については解消していませんでした。


 そうした知識の足りなさを、のちに補ってくれたのが、これから紹介する一冊の本です。


 それはNHKから出版されていた古い本で、



聖書―その歴史的事実 (NHKブックス 250)

新井 智


という良書です。アマゾンで売っているので、ぜひ興味のある方は読んで見てください。

https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BA%8B%E5%AE%9F-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-250-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E6%99%BA/dp/4140012501/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1506592437&sr=1-1 




 さて、この本は1976年に初版ですから、かなり昔に書かれたものだということになります。

 しかし、内容的には現代でも十分通用しますので、特に聖書の知識が「ある」人にとっては、むしろ学術的な興味をいっそうかきたてられるエキサイティングな本であるともいえるでしょう。


 この本のアプローチの面白いところは


「歴史的事実に基づく聖書の世界の実像は、これこれこうだった」

ということをまず示そうという姿勢です。

 それに対して、著者はれっきとしたキリスト教の信仰者ですから、


「歴史的事実はこうだったけれど、それを信仰として捉えるならば、このように受け止めることができる」


という視点もあわせて持って記述なさっているわけで、これを著者のオリジナルの言葉では


「信仰的事実」


と表現しています。


 この著者さんの姿勢として好感が持てるのは、

「聖書の歴史やイエスはあくまでも人間らしいものであったかもしれないが、その歴史的事実としての聖書の世界は”それはそれとして”でも、私たちキリスト者はそこに信仰を見出すのだ」


という切り分けをきちんと押さえているところでした。


 これは、一方で「クリスチャンであることを辞めた私たちにとっても、冷静であり、それでいてかつてキリスト者であった私たちを自分で納得できる意味づけ」となり得ます。

 ちょっと難しい言い回しになりましたが、

「歴史の聖書像はこうなんだから、信仰はうそっぱちだ」

と頭ごなしに否定するものでもなく、

「いや、聖書に書かれた言葉が真実で、それを鵜呑みにすべきだ」

という妄信とも異なる、冷静な態度がそこにあるので、共感できるというわけです。


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 さて、上の書がどちらかというと旧約聖書の真実を追ったものだとすれば、次に紹介するのは新約聖書の部分、つまりイエスの生涯にスポットを当てたものだといえるでしょう。



 イエス・キリストは実在したのか

 レザー・アスラン


 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%BC-%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4163900934/ref=sr_1_22?s=books&ie=UTF8&qid=1506592979&sr=1-22&keywords=%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%80%80


 こちらはややイエスの生涯に寄りすぎのきらいはありますが、当時のローマ支配下における”ナザレのヨシュア(イエス)」という若者が、何をしようとしていたのかが、理解できる良書だと思います。


 過激派・活動家としてのヨシュアくんの姿が、どのように信仰の対象に変容していくのか、という点では、これまた聖書をよく知るものとしては、納得できるものとなるでしょう。



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 さて、このたび私は、


「信仰的事実とは何か」

ということと

「歴史的イエスの姿は、いかなるものであったか」

ということを、かなりわかりやすく噛み砕く目的もあって、ひとつの物語を書いています。



 それは、おもしろおかしいライトノベルの形式をとってはいますが、



「いかに人は、事実から信仰を創造しうるのか」



ということをテーマにおいた重要な問題提起でもあります。



 作品は、
 
https://novel.daysneo.com/works/b0c04591422427ceda5bc3fbf689e1ff.html 





にあります。


「ヤンキー小田悠太の慟哭」


というタイトルで、まったくのギャグ小説ではありますが、最後まで読んでいただければ、


「歴史的真実としての聖書の世界、と信仰的事実としての崇拝の世界」


の織り成す綾(あや)のようなものを感じ取っていただけると思います。




 エホバの証人であった私は、すでに聖書をこれくらい笑い飛ばせるものとして、受け止めております。

 それでも、元エホバの証人らしいエッセンスがちょっとだけ残っていて、元Jのみなさんには共感していただけると思うのですが、いかがでしょう。



 それは、イエスを「神的存在」として捉えず、あくまでも「神への服従を推し進めようとする従属なるもの」として描いている点です。


 こわいですね~。おそろしいですね~。これが洗脳の成果なんですね~(笑)



 いわゆる旧来のクリスチャンであれば、「救い」そのものは「イエス」によるところが大きいのですが、元Jなので、どうしても「救いは神にあって、イエスにはない」としてしまいがちなんですね。


 このあたりの神学解釈は、元Jらしさが残ってしまってるなあ、と苦笑です。


 三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。


 余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。


 あの物語は「イエスは結婚していて子孫がいる」という根幹的なモチーフがもとになっていますから、「歴史的イエス」「史実としてのイエス」を受け止めるにはとてもよいネタです。

 Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
 



 楽しんでくだされば幸いです。




2017年7月25日火曜日

よくわかる 「エホバの証人とムチ(鞭)」の話 ~ムチ・トラウマも今日ですっきり解消!~



 エホバの証人の2世の子供達が、大人になってもずっと幼少時からの



 トラウマ



として心の傷になっている出来事として「ムチ(鞭)」の話があります。



 信者以外には伝わらないのですが、エホバの証人の2世の子供たちは、ちょっと悪さをしたり、集会中に居眠りをしたり、親や聖書に反することをすると



 ムチでしばかれる



という体験をするわけですが、 これが子供心に恐怖体験としていまだに残っているわけです。



 で、その恐怖とそれに対しての怒りの矛先が



「親と組織」



に向くわけですね。



「あの頃、ムチでしばきやがった親に対しての憎しみや不信感」


そして


「それを励行していた組織への怒り」


みたいなものを抱く2世は多いようです。



 しかし、そんな過去のトラウマをいつまでも引きずっていたり、それに囚われていては新しい人生も歩めないし、親ときちんとまっとうに向き合うこともできないので、今日は



「そういえば、あのムチって一体全体なんだったんだ?」



ということをすっきり解決して、新しい明日へ歩き出してもらおうと思います。というわけで、きちんと理解してすっきりしてください。





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 はい。そこで、今日のポイントは3つです。



■ あのムチはエホバの証人の専売特許ではなく、キリスト教の文化だ

 
■ ムチでしばかれるのは、「怒られているのではなく、元はイエスの追体験」


■ あのムチは、夜になるとエロい道具に変身するのだ!





 さあ、驚きのポイントを3つ挙げました。一つずつ解説します。




<1> ムチ(鞭)はキリスト教圏の文化である件

  エホバの証人だから鞭が登場するわけではなく、キリスト教圏ではあのムチは「当たり前の道具」として登場します。

 海外の人が、こどもに「おしりぺんぺんですよ!」としつけをする場合は、あのムチが自動的に登場するわけですね。


 ウィキペディアより「尻たたき」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BB%E5%8F%A9%E3%81%8D





 というわけで、欧米では宗教関係無く「指導者が生徒の尻をムチで叩く」という行為はけっこう当たり前に行われていたのですが、エホバの証人はアメリカの宗教なので、


 それを自動的に取り入れた


わけです。


 なので、日本では「ムチでおしりをたたかれる行為」はなんだか特別な虐待行為のように思われますが、欧米では意外と今でもふつうにやられている、という理解は大事。


(つまり、エホバの証人は特殊な事例ではなく、世界中にムチでしばかれたお友達がいる、ということです)







<2> ムチ(鞭)はイエスと密接に結びついている


 さて、キリスト教圏ではムチが普及しているわけですが、その理由はもちろんキリスト教のカトリックと関係します。


 この背景を知るには映画の「ダヴィンチ・コード」をいますぐ借りてきて見るのがわかりやすいです。

 見たことがない人は、すぐにレンタルしてきてください。


 ダヴィンチ・コードは、簡単にいえば「イエスに子孫がいた」という話なのですが、カトリック側の刺客としてオプス・ディの兄ちゃんが登場します。


 この兄ちゃんが、トゲトゲを体にまきつけては、ムチで自分をしばきまくるシーンが出てきます。



 これが、キリスト教圏でのムチの原点です。ようするに「イエスが受けた苦しみを自分も追体験することで信仰をより強くする」というわけですね。


 変態ですが。



 オプスディの解説をちょっと読んでみましょう。

 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4 




鞭や鎖を使用する肉 体的苦行は、カトリック教会においては非常に伝統的であり、かつ現代でも行われている





使用される鞭は、紐(ひも)を編んだ物で、金属やその他固い部分はなく、体に傷跡が残るような使い方ができないもの




 通常、週一回、「主の祈り」などカトリックの代表的な短い祈りを唱える間、自らが加減して使用します。




 ようするに、カトリックの苦行体験(修行)として、ムチを使うわけです。これが、変化して、上位者から下位者への指導としてのムチ使用が行われるようになってきました。




<3> 性的嗜好としてのパドリング


  ムチ(鞭)でしばかれると、それがトラウマになって、性趣向として記憶に残る場合があります。欧米の子供たちはおしりを叩かれる体験は日常ですので、いわゆる


 赤ちゃんプレイ


のような形で鞭が登場します。


 エホバの証人にとっては「聖句などが入った神聖なムチ」ですが、あれが世の中で出回ると、


「エッチなことばが入った、プレイの道具」


と化します。


 特に欧米ではそうです。あんなもんバッグに入れてたら、ど変態です。


 パドルという言葉で検索すると、なんということでしょう。




 とっても使い勝手のよさそうなムチがやまほど画像ででてくるはずです。



 アマゾンでも売ってます。


 また形状やら言葉が入っているところがエホバの証人が使っているものと似ていて面白いでしょ?

 これがキリスト教文化にひっぱられていることの証なのです。



 日本のエホバの証人は、内部の目線しかないので、海外からみるとこういう道具だということを知りません。きゃ、はずかしい。




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 というわけで、これまでムチの記憶に心を痛めていた人、あんなもん欧米のエロい道具とおなじなので、一刻も早く忘れて、「どうでもいいわ」と思ってください。



 むしろ、あのムチに囚われすぎていると




 変な性癖




を持ってしまう可能性もあります。これで、明日からすっきりですね!





 

2017年7月20日木曜日

 エホバとコーヒーと浣腸  の接点。 ~「部屋とワイシャツと私」じゃないんだから~




  エホバの証人になってしまう人は、



 「ものすごい病に侵されていて、今にも救いを求めている人」





「会社や地域でひどい状況に置かれていて、もう死にそうな人」



というわけではなかったりします。



 そう、意外と



普通の人、ふつうだと思われる人



がじわりじわりと信仰にハマっていったりするのはよくあること。





 今日は、直接的にはエホバの証人さんとは無関係ですが、



「トンデモ健康情報」から、健康カルトにハマった人の話



でも読みながら、わが身を振り返ってみたいと思います。




 トンデモ健康情報で家庭が崩壊した男性が語る、元妻の変化
 https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/kenkobon-03?utm_term=.wp3Pv447d#.efwjGnnr8

(BuzzFeedNewsより)





 ”加害者であり、被害者にもなるのは、身近な普通の人”



 ”誰でも疑わず、信じているささいなことが取り返しのつかない事態に”



 ”身内を疑うという発想がなかった”



 ”真実を知らない人、と下に見て、バカにするような態度を取るように”



 ”信じたいものを信じたいように信じる”



 ”彼女は肯定してほしかったんだと思います”



 ”伝道により承認欲求が満たされ、自己肯定感が得られてしまう”




 いやあ、身につまされますね。まるでどこかの誰かのお話を見ているようです。



 でも、この話はエホバや真理についてではなく、



 コーヒー浣腸



から始まっているというから苦笑する以外にありません。カルトたるもの、神も浣腸も同レベルだということです。




 できる限り良いモノを摂取したり、よいことをしたいと思うのは、すべての人に共通の当たり前の感覚だと思います。



 しかし、その「良いモノ、よいこと」の規準を正しい知識や客観的な視点でみることができないと、



「誰かの一方的な意見にハマってしまう」



という落とし穴があるわけです。



 それは、健康食品でも王国の良いたよりでも、全く同じことです。




 辞めJさんには、こういうバイアスのかかった情報に対する「ひっぱられ癖」がついている人が多いと思うので、ぜひ何事も自分の頭と心でしっかり考えるようにしてほしいものです。



 


2017年7月12日水曜日

毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~




 7月に入って、毎日新聞で「毒親」について女優の渡辺えりさんが回答したこともあって、ネット界隈では



「毒親問題」





がちょっとした関心を集めるようになっているようです。





 (参考)


■【毒親】何か気に入らないことがあるとすぐ寝込む母について19歳女性が相談
https://togetter.com/li/1126714




その前後にも、毒親関連の記事はちょくちょく話題になっていて、



■まさか自分が・・・多くの親に潜む「毒親」の兆候

http://toyokeizai.net/articles/-/172443



■両親ともに毒親 父親から「虚言癖」と言われたことがトラウマに

http://blogos.com/article/220918/



■もしかして私も?「毒親予備軍」の特徴とチェックポイント


http://ure.pia.co.jp/articles/-/74581



など、この春頃から記事になっているものがたくさんあります。





 ちなみに、このブログは特定の宗教についてスポットを当てていますが、


「毒親であるかどうかは、宗教とは関係ない」




とも言えるし、



「宗教のせいで毒親になるわけでもない」



ということは、把握しておいて良いと思います。


 それよりもむしろ


「もともと毒親であったものが、宗教のせいでよりひどく発現してしまう」





ことはあり得るでしょう。 教義でこうなっているので、私は正しいのだという動機づけがなされるからです。





 当事者として、この問題にどのような解決を得ればいいかは、最終的には人それぞれですが、




ひびわれたまご さんのブログ

http://blog.shinoegg.com/entry/2017/07/11/224141




などは参考になるかもしれません。





 この記事では



段階1  親に無条件で受け入れて欲しいと願っている希望


 

段階2  それがかなわないのは自分のせいであると考えてしまう過ち


段階3  あるいは親がすべて悪いと考えて拒絶すること


段階4  親に完璧さを求めず、それぞれが別個の人間であると理解する


段階5  実は「親が好きか嫌いか」とか「親が正しいか間違っているかとは、次元が離れているのではないか、と気付く




 といういくつかのステップについても触れられているので、それぞれの立場で共感を得やすいかもしれません。






 ==========





 さて、両親がJWの信者であり、自身は元2世で、かつ今となっては子供を持つ親である武庫川の考えは、これらすべてを包括したものとなっています。




 まず、親の立場で考えてみましょう。




「親はすべてにおいて完璧な指導者、保護者であるべきであり、そうでないものは親にはなれない」



という理想像があるとして、この理想にあてはまる人間はおそらく誰もいないと思います。



 イエスのたとえではありませんが



「この中で、親としてふさわしいものだけが、親になってよい」



と言うならば、その場の全員が立ち去ることになるかもしれません。




 ところが、この理想像は間違いで、「親としての資質を備えていなくても、妊娠と出産が可能」なようにすべての生き物は作られているわけです。



 ひどい場合には、「父親が誰であるかわからなくても妊娠が可能」であることを考えれば、親である資質や資格なんてものは、



 机上の空論である




とまで言っても過言ではありません。



(もし、資質がなければ産んではいけないなら、レイプのよって妊娠した子は全員堕胎させられねばならなくなってしまいます。それは変です)





 つまり、何度もいいますが、




「親であることは、資格や資質と結びついたものではなく、それが保証もされていなければ、確約もされていない」





ことが大前提なのです。






 そうすると、すべての親は誰しもはじめて親になるのですから、



「親ではなかったものが親であろうと頑張っているだけで、結果が伴うかどうかはわからない」



ということになります。




 そう、すべての親はダメ親である、ということからスタートするのです。





==========




 ここまでは、親サイドからの考え方でした。




 しかし、子供のうけとめ方は異なります。



「唯一絶対の存在である親に対しては、庇護してほしい」




と願うことは、これまた当然です。



 そして、「親の庇護の方法が、少なくとも小さい間には、それしかない唯一の知りえる存在である」ということも、実態としては当然なのです。






 厳密には、これは「核家族化された資本主義社会において起きる問題点」であって、人類共通の問題点ではありません。




  世界中のヒトの生活実態を見れば、ヒトは多くの国や地域でもう少し部族・氏族集団で生活をするので、



「親代わりに相当する大人や親族が廻りにたくさんおり、それらの中で相対的に親が存在する」



というスタイルのほうが、一般的です。




 父と母と子の閉ざされた集団で完結する枠組みで考えるから、両親が機能不全であればバックアップがまったくなくなるのであって、ヒトの本来の生活スタイルでは、



「毒親は存在しても、子に客観的な立場と逃げ場はたくさんある」




といえるでしょう。



==========




 残念ながら、毒親しか存在しない環境で閉鎖されて育ってしまった人は、某北の国で生まれ育って、そのほかの国を知らないで餓死した人のようなもので、


「自分の親がおかしいと気付かず、育ってしまう」



ことになります。


 なので、気付く以前のことは、某北の国とおなじでどうにもならないので、



 「気付いた後をどう生きるか」




しかありません。




 では、某北の国と同じなのであれば、できることはひとつです。


 それは、「脱親(離れる)」こと。


 新しい価値観の元で生きていくことです。




 脱Jの上に、脱親だなんて、エホバの証人の2世は、2度苦しむことになるのですね。



 

2017年7月1日土曜日

カルトなどの宗教を脱した人のための「新しい歩き方」 エホバの証人を辞めたあなたへ




 エホバの証人に限らず、カルトなどの「洗脳的支配」から脱した人には、どのようなプロセスを経て立ち直ることができるのでしょうか。



 これが、正解、というものではありませんが、ある一定の道筋のようなものはあってもよいかもしれません。



 そこで、私がネット界隈で遭遇した辞めJさんたちの言動や生き方をほわっと丸めながら、その歩き方をまとめてみましたのでご参考に。



(一度、ツイッターで呟いた内容の補足です)




 このプロセスは、以下のような流れになります。





■ 過去の振り返りや毒吐き

■ 聖書について真実を知る

■ 霊的にいっぺん死んでゼロになる

■ 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む

■ 自分が存在する意義の再構築

■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


などなど。





■1 過去の振り返りや毒吐き


 毒親的な1世親に育てられた2世の方や、あるいは会衆内でなんらかのトラブルに巻き込まれた方、または排斥に逢った方などは、


「自分が不遇な立場にあったり、ぶっちゃけ酷い目にあった」


ということを、ある程度外に放出することは、適していると考えます。


 それを黙って溜め込んだり、なかったことにする必要はありません。外へ出すことで「似た境遇の人の理解や共感を得る」ことができたり、自分の中で「言葉にして処理する」ことができるのであれば、それは有効な作業です。


 しかし、毒吐きは「相手や外部を悪くいうことによって、相対的に自分が善であったり、正義へ変わる」という効果と、同時に罠を生じさせます。



 毒吐きや文句を言うこと、誰かをののしることは「最初だけ許される小さなステップ」だと考えましょう。


 いつまでも毒吐きに終始することは、あなた自身もその毒の罠に陥ってしまうからです。






 ■2 聖書について真実を知る



 聖書に限らず、カルト的信仰が、「外部からどのように見られていたり、客観的事実に基づくと、実はどうだったのか」を確認する作業は大事です。


 信者は、教え込まれた教義のみを見ていますから、それ以外の視点があることで、より真実に近づくことができるのです。


 幸いなことに、聖書に対する学術的な検証や、聖書学としての見地から書かれた資料は、インターネットで多数得ることができます。


 どんな小さな質問でも、たとえばツイッターで投げかければ、答えてくれたり、その典拠を教えてくれる先輩もいることでしょう。



 この作業で大切なのは、「教義から離れる」という感覚です。 自分ではわかっていても、教義にしばられてしまうことは多々あります。


 「これがいけないことなのではないか?」と感じてしまったり、「そうはいっても、自分からは望まないことはできかねる」と思ったりすることは長く続きます。


 それが本当に聖書に由来するのか、立ち止まってみることは有効です。





■3 霊的にいっぺん死んでゼロになる


  私はこの作業を「もういちど逆バプテスマを受けてみること」と呼んでいます。


 一度死んで神に身を捧げたのとおなじことをやりましょう。


 組織や教義に属していたあなたは「一度死んで、まっさらな状態でもういちどこの世界に返ってくる」のです。


 あるいは、「何もないまっしろな世界に、生まれ落ちた状態」を作ってもよいです。


 それは若い人だけでなく、中年でも老人でもおなじです。もう一度まっさらになる、これが大事です。


 歳を取っていると、「組織に属していた年月が無駄になる」とか「その時間を損した」とか「いまさら、こちらの世界で出来ることは少ない」と考えがちですが、違います。



 そうではなく、「あなたには、この世界で生き生きと生きるチャンスを、たった今これから未来に向かって与えられたのだ」と感じてほしいのです。


 これは、ちょっと苦笑しながら書きますが、「エホバからのギフト」です(笑)


 まるで地上に生まれたアダムのように、「まっさら」なのですから、すべての経験は「ドキドキワクワクする良いもの」であるのです。





■4 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む


 エホバの証人を辞めても「この複雑な宇宙や世界が、勝手にできたとは思えない」と感じることは多々あります。


 あるいは、「エホバという名前や性格とは異なっても、なんらかの創造主がいるのではないか」と思うことは当然です。


 ネット界隈の辞めJさんたちは、それぞれの感性でこの問いへの答えを持っています。


 これも、「何が正解」というわけではありませんが、神は存在していたとしても、あなたに厳しい何かをつきつけたりはしない、という感覚を持つことは安らぎとなるでしょう。


 ある先輩は 「神は、人類に干渉しないのだろう」という考えで納得しています。

 またある人は、「神は、人類だけでなく、他の被造物にも平等なのだから、人だけに何か関わってはこない。あるいはその分おなじことを他の被造物にもするはずだ」と考えます。

 あるいは、「神様は、ある種のゲームを楽しんでいる」と考える人もいるし、「箱庭をただ眺めている」と考える人もいるでしょう。


 それらの考えに共通なのは、


 「全知全能の創造主が、人などのちっぽけな行動にとやかくいうのは変だ」


ということです。それは神というより、いかにも人間らしい性格を持たされた、聖書の単なる記述なのかもしれません。






 ■5 自分が存在する意義の再構築


  第4段階くらいまでは、比較的楽に達成するのですが、5段階目くらいから苦しむ人は多いと思います。


 組織や教義によって作り上げられた自分は死んだ、としても、では新しい自分をどのように見つければいいのでしょうか。



 これは、一人では少し難しい作業です。


 多くの辞めJさんたちは、「夫や妻などのパートナーとの支えあい」の中で、新しい生活を再構築なさっている方が多いと感じます。


 
 相手がJW経験者であれ、あるいは世の人であれ、こちらの世界で新しい暮らしを作ってゆくというのは、誰かの助けがほしいところです。


 逆に、自分の家族が組織に残っている場合、ここでかなりヤラれます。


 自分は離れていても、家族の存在意義は組織や教義で構成されているので、分断されてしまうことで「自分の立ち位置まで引き裂かれてしまう」ように感じるのです。


 これをたった一人で戦うのは、かなり苦しいことと言わざるをえません。



 そこで、この点で苦しんでいる人がいれば、先輩である私や、あるいは辞めJさんである程度自分を確立なさっている人の手助けを得てほしいと思います。


 私は個人的には、この段階にいる方を応援します。



 「あなたは愛されるべき存在だよ」と口でいうのは簡単ですが、実の親からプレッシャーをかけられたりすれば、他人の発言より親の発言の方が重くなるのは当たり前です。



 じゃあ、救われないじゃん!と短絡的に落ち込まずに、ここからしっかり再スタートしてほしいのです。


 家族は敵のように感じられるかもしれませんが、あなたにはかならず味方がいると思ってください。







■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


  こちらの世界で生きていくには、「お金」も必要だし、「仕事」も必要です。社会的な意味での「立場」のようなもの(べつに偉くなる必要はないですが、資格であったり、ポジションであったり)も必要になってくるでしょう。



 これは、理念ではなく具体的なノウハウを身につけることが大事です。



 時間や手間がかかるかもしれませんが、中高生が卒業して大人へなってゆくプロセスを、もう一度やり直す必要があるでしょう。


 特に若くして奉仕活動へ入ってしまった方は、本当にこの世での「学び」をやり直さなくてはならない場合が出てきます。


(まあ、やり直すと言っても、そもそもそれを避けて歩いてきているはずなので、ただこの世の人とおなじ通過儀礼を通るだけなんですが(^^;;)







 長々と書きました。それぞれの実情や状況に応じて、自分にとってはどうか考えていただければ、少し楽になるかと思います。



 エホバの証人を辞めることは、「カナンの地を求めて、モーセのグループとは離れて一人で歩き出すこと」になる険しい道のりを意味する場合だってあります。


  それは恐ろしいことのように感じられるかもしれませんが、実は先輩たちはたくさんいますので、彼らの言葉やヒントを羅針盤にしながら、歩き始めてほしいと思います。




 







2017年6月25日日曜日

エホバの証人を離れてから 「自分のなかの選民思想」とつきあってゆく方法




 エホバの証人の信仰を持つ上で、私達が大きく影響を受ける一番のポイントは、


「選民思想を持ってしまう」


ことにほかなりません。


”わたしたちだけが王国のよいたよりを持っているので、のべ伝えなくてはならない”


”わたしたちだけが、真理を知っている”


”わたしたちだけが、楽園へ行ける”



というエリート意識は、信者の生活の根幹となります。




 この選民思想は、ユダヤ人だけが神に選ばれ、カナンの地へ行ける、という旧約聖書の概念をそのまま現代的に教義化したものですが、エホバの証人の信者である時には、これが



「自分を励まし、鼓舞するアイデンティティそのもの」



となるわけです。





 この選民思想が、いろいろな弊害をも起こしていることは、エホバの証人から離れた人は、すでにご存知でしょうので、その点についてはここでは触れません。





 問題は、あなたがエホバの証人を辞めた後に生じる



『選民ではなくなった感』『エリートではなくなった感』『特権がなくなった感』『真理を見失った感』



といった喪失感とどう折り合いをつけてゆくのか、なのです。




 2世信者さんの多くは、もともとが制限の生活を送っていますので、組織から離れることで


「これで自由になったぜー!世のおともだちとおんなじことができるぜー!」


で済む人たちも多いのですが、なまじっか「真面目に聖書を学んでいた2世」や「自分から信仰していった1世」については、



 この剥奪感覚と喪失感覚にはハンパないものがある



と思います。






==========






 そのため、エホバの証人を辞めた人の中には、



『自分を見失い、いわゆる自分を傷つけるような悪に染まってゆく』


人や、


『ほんとうの真理とやらを求めてさまよい歩く信仰難民になってゆく』


人もいます。あるいは別の宗教へ鞍替えをする人もいるわけです。




 選民思想を失ったわたしたちは「ほんとうにちっぽけな存在で、何の価値もない、むしろこの世の人たち以下」になってしまうような感覚に襲われるわけですが、 私は、そうした不安におしつぶされそうになる人たちへの処方箋、救いの方法を知っています。



 安心してください。大丈夫です。あなたの感覚をきちんとサポートする方法はいくつかあります。



  どの方法があなたに合っているかはわかりませんが、例を挙げてみましょう。






■ 自分の過去を、価値のあるものとして認める方法


 自ら信者になった人は、「途中で寄り道をしたけれど、この世界の成り立ちについて考えた経験は、きっと自分だけの大切な体験である」と認めてみましょう。


 ご承知の通り、この世で生きている人の大半はそうしたことを考えずに過ごしていますので、これらの哲学的な問いと向き合ってきたことは、あなただけのアドバンテージとなります。


 自分の中の教養としての聖書は、かならずあなたの人生を豊かにすることは間違いありません。


 それはそれとして、否定せず認めてしまってよいと思います。



 私は、個人的には「創造主がいることは、自分の中で肯定してよい」という立場をとっています。


 聖書に書かれた創造主像や、いわゆるエホバの性格をしている創造主がいるとは思えませんが、もう少しニュートラルな神がいるかもしれない、と思うことは全く問題ありません。



 ※「ではどのような神が本当の真理なのか」といった部分に興味がある人は、私なりの答えはもう一つのブログに書いていますので、ご参照くださいませ。






■ 自分自身の価値を、別の次元から探し出す方法



 私は以前、高校教員をしていた関係で、カウンセリング的なアプローチを取ることが多々あります。


 現役の仕事をしていた時は、生徒たちは「エホバの証人」ではないわけですから、彼らや彼女らがいる世界の中で、


「生徒たち自身が価値を自分に見出せる方法」


をサポートするのが任務だったのです。


 もっとも簡単なのは、


「あなたはこれこれこういうことができるから、価値がある」



と評価することです。こうした良い点は、自分では気付いていないことも多いので、いわゆるメンターのような指南者がいれば、すぐに長所を見つけられることでしょう。




ですが、中にはそんな得意技や個性を持っていない生徒もいます。


 そうした人には、「あなた自身が、存在しているだけできちんと価値があるんだよ」ということを、示します。

 これも何の根拠もなくそう言われても意味がわからないと思うので、教師時代には個別の事情を考慮しながら生徒にサポートをしてゆくことがありました。





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 エホバの証人を辞めて、今こちらの世界で活躍なさっている人に、わたしからのお願いがあるのですが、



 ぜひ、あなた自身が過去を乗り越えて、新しく組織を離れた人のサポーターとなってください



と常に思っています。



 みなさんの中には、もと司会者として「誰かを組織に導いた」経験を持っている人も多いことだと思います。


 その技術を使って、まったく逆の内容を伝えることは、難しいことではありません。



 もし、私が持っている「新しい自分を見つけるプログラム」に興味があるという方がいれば、いつでも伝授しますのでぜひご連絡をください。


 一般的なカウンセリングなどでは、エホバの証人の実際についての知識や共感があまりないと思うので、その点で


「ああ、カウンセリングではわかってもらえないんだ」


と感じた方は多いと思います。その辺りは、まったく異なる配慮をしています。


 (宗教などとはいっさい関係がありません。ご安心ください。費用もかかりません)




 





2017年6月22日木曜日

エホバの証人、その崩壊の日は近い?! ~組織は「合理的」に失敗する~



 私はすでにエホバの証人という組織から離れて30年も経っているので、個人的にはこの宗教についてはあまりなんとも思っていないのですが、逆に30年ぶりに現在のエホバの証人の様子を訊くと、いろいろと変化が起きていてハテナがいっぱいだったりします(^^;;


 たとえば、ipadの活用なんかはその例で、どうして紀元前から守られてきた教えを伝えるのに、ここ数年で登場したガジェットを用いなくてはならないのかよくわかりません。



 まだ聖書冊子協会の名の通り、書籍や冊子を配り倒すほうが宗教としての性には合っているような気がするのですがいかがでしょうか。



 さて、ここで近年気になっているのは、「ハルマゲドンが来る!」といい続けてきた「くるくる詐欺」な側面のあったこの宗教ですが、 どうも、


 ハルマゲドンが来る前に、組織の終焉がやってくるのではないか


という予感がしています。


 あるいは、これは預言者ムコガワへの神の託宣かもしれませんがね(苦笑)





 そのことを裏付けるような、興味深い「世の」記事がありましたので、ちょっとそれを引用しながら考えてみたいと思います。



■東芝大失敗の研究~組織は「合理的」に失敗する~
(現代ビジネス)
  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51710



 奇しくも、東芝さんが、原発がらみの粉飾やらなんやらでえらいことになっていますが、上の記事では


どうして組織というものが「組織としてきちんと運行されようとしていながら、失敗するのか」


について解説がなされています。



 一見、エホバの証人とはなんの関係もなさそうですが、これは組織にとっては大きな課題でもあるのです。



 さて、どういうことか。




 組織がまじめに運用を検討していながら、合理的に失敗の道へ進んでしまうのは「取引コスト」のせいであるといいます。


 記事の中では、組織がその内部で行動を起こすときに、「きちんとやろうとして取り決めたルール」などを守っていると、そのおかげで良い結果がついてくる時期がまず存在することを説明しています。


 ところが、時代や状況が変わったりすると、「取りきめたルール」はこれまできちんと結果を出してきただけに、その変更には多大なエネルギーがかかったり、見えないコストが生じる、というわけです。


 なので、組織においては「変更のためのコスト」をてんびんにかけた結果、「以前のまま運用しようとして失敗する」ことが生じるのです。



 記事の中では、「旧日本軍が、戦術変更のコストに負けてしまった」例や、「東芝が原発撤退のコストに踏み切れなかった」例が挙げられていますが、



 JWの組織体制にも、つい思い浮かぶ「取引コスト」が存在する



ことが、あなたにも容易に想像できることでしょう。




~~~~~~~~~~




 離れた者として外部から眺めていると、エホバの証人というのは、実は意外と


「仕様変更に強い、柔軟なシステム」


を搭載していることに気付かされます。それはいわゆる「新しい光」ということばで、聖書の解釈や運用を、変更することができる、というシステムです。



 神様は必要な時に、新しい指針をお示しになられますよ、という理屈ですね。



 ipad投入なんかは、これで説明できるわけですが、実はエホバの証人には、根源的な「取引コスト」が存在していて、それは、



「ハルマゲドンが来る。その基準年は1914年である」


という教義の中核部分です。


 エホバの証人は、アメリカの聖書マニアであるラッセルさんが、「ハルマゲドンがいつやってくるのかをピラミッドの数字を用いて算出した」という学研ムーの世界とか矢追純一さんみたいな話なので、もともと聖書の厳密な研究によってもたらされたお話ではなく、



「思いつき」


レベルの教義からスタートしています。



 それが、興味深いことにエホバの証人にはいわゆる「絶対教祖」が存在せず、その運用を組織という人間ではない「集合体」に任せてきたものですから、


「もともと、あやふやなルールを、みんなでよくわからないまま運用する」


ということを長年やってきました。そうすると、ハルマゲドンが来る話も、復活の話も、14万4千人の話も、



「これまでそう信じてきたんだから、それを大事にしよう」



と思いがちで、これが完全なる取引コストと化すわけです。



 一方、時代に合わなかったり、解釈を変えた点があれば、それは新しい運用がなされるわけですが、(エホバの証人はこの更新作業が比較的多いほうなので、ある意味良心的?)そうするとそこがまさに取引コストの中核部分なので、



「以前から信じてきていた人は、コストとみなされたり、新しい教義と齟齬が生じる」



わけで、これはそのまま「組織への不信感、忠誠のゆらぎ」を生じさせるのです。




 なので、今のエホバの証人に何が起きているかといえば



■1 古い教義・取引コストを優先させようとすれば時代に合わなかったり、情勢と合致しなかったりするので、組織への不信や不満を招く



わけです。そして同時に、



■2 新しい教義を優先して取引コストを処理しようとすれば、これまでの積み上げが無駄になり、古参信者の不信や不満を招く



ことにもなります。ええ、どちらにしてもうまくいかないので、組織は頑張れば頑張るほど失敗するのです。





  というわけで、預言者ムコガワは、「目覚めよ!終わりの時は近い」と組織の内部のみなさんに警告しているのですが、



 その終わりの時とは、ハルマゲドンではなく、エホバの証人の分裂解体



を意味しています。



 それでなくても昨今のエホバの証人は、組織論として素人采配が多すぎます。




 まず、 内部で有能なエリートを育てず、学歴批判をすることで、組織の中枢を「アホ」ばかりにしていること。

(オウムの例でもわかるように、エリートは科学的知識を持っていても宗教を信じるのですから、2世を進学させたらいいのです)




 つぎに、奉仕時間のノルマを過剰に課すことで、信者が「現金を生産する」時間を奪い取っているために、組織が貧乏になっていること。

(通常のプロテスタントらしく、「仕事をして金を稼ぐことも神への奉仕」という視点をもてばいいのです。特開者へ払う金もなくなったらしいですな。)




 信者数の減少や排斥制度などで「追い出す」ことしか考えていないため、組織を維持するには「新しいカモを呼び込むしかない」のですが、そのために奉仕活動しかできない人材をやみくもに回転させる羽目になり、自転車操業状態になっていること。

(当然、新しく入信する人材は、どんどんレベルが低下する。組織や会衆が機能的に成立できず、長老の資質も下がる一方)



 そりゃ、古参信者からみたら、「なんじゃこりゃ。何が起きてるんだ」とよけい思いますわな。





 ムコガワはやさしいので、こうして組織が崩壊した後に「エホバ難民」となってしまった人たちの受け皿のようなものが必要だと思っているのですがねえ(^^;;;



























2017年5月18日木曜日

エホバの証人の親子関係が、虐待的になる理由 〜その罪と罰がなぜヤバいのか〜





 このブログは、基本的に、筆者がエホバの証人だった時代のことを念頭に置きながら書いているため、時代が異なる信者のみなさまとは、ニュアンスが異なる部分があることは否めません。


 しかしまあ、そもそも2000年も前から続く教えとやらが、私の世代と今の世代のたかだか十年や二十年で



 解釈や運用が違う



ということ自体がおかしいのですが、そこはまあ、百歩目をつぶって(苦笑)





 近年に近い、若い世代のJW界隈の方と、ネットなどでお話をしていると、



「鞭(ムチ)」


がらみの話が、よく話題に登ります。



 もちろん、「懲らしめのむち」という概念は私の頃からありました。


 親が子に対して、「悪いことをしたのでお尻を出しなさい」というニュアンスでのいわゆる


「お尻叩き」


は、当時からあったし、別にJWに限らず、俗世でも「おしりぺんぺん」はよくある話です。



 しかし、近年は、ゴムホースやら特別な手製のムチやら、何かしら


「専用の武器」


みたいなのが設定されて、それで叩かれるということが多いようで。


 それも、私の時代には、お尻を叩かれるのは、よほどの悪事や反抗的態度があればこそで、たとえば、集会中に眠気を催した場合などは、


「トイレで顔でも洗ってきー」


なんてことはよくありましたが、



「後でムチでしばかれる」


など、そこまではありませんでした(ーー;;;




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 さて、過去のエホバの証人の様子と、現在の様子を比較することが目的ではありません。

 この「罪とムチ」の関係が、恐ろしいのは、その本質的な意味合いです。




 現代では、「しつけのために、おしりペンペンする」という行為は、それだけで虐待的扱いをされており、虐待とまではいかなくても



 体罰



として認識されていることと思います。



 しかし、仮に、これらの行為が体罰で虐待であるとしても、



 一般的な体罰・虐待と


 エホバの証人の体罰・虐待は意味合いが異なる



ということは、理解しておくべきでしょう。







 ここで、体罰を容認している父親や、学校の部活動の先生などをイメージしてください。



 ある父親がいて、自分のこどもに悪いことをすれば体罰をする、という事態が起きているとしましょう。



 あるいは、スパルタな学校の部活動で、ある先生が部員に殴るなどの体罰をしていると想像してください。



  この場合、殴られたり罰を受けるこどもや生徒は、基本的には



「殴る、体罰をする、虐待をする父や先生の意に沿わないと罰を受けるんだ」



と解釈しますし、まさにその通りです。




 これは、罰するものと罰せられるものが、直線的な人間関係で結ばれていることがわかるでしょうか?



 父や先生と、こどもや生徒は、「指導者と被指導者」の一直線の人間関係で結びついています。




 なので、仮に、「父親が愛してくれているから自分は叱られるんだ」とか「部活の指導の一環で、手が出ているんだ」と思い込めば、これは直線的であるが故に



 ストレートに理解ができる



わけです。




==========



 ところが、エホバの証人の教義だけではないですが、こうした宗教上の教義に基づいた


「善悪の判断」


には、大きな落とし穴があるのです。




 それは、実際にムチをふるう主体(たとえば父親や教師に相当する人物)の意図や、基準によって行為が行われているのではない、という点です。



 どういうことか、もう少し丁寧にくりかえしますね。



 お父さんや先生が、自分の基準で殴るか殴らないかを決めており、それをこどもや生徒が受け止めざるを得ないのであれば、そこには父や先生という直線的な基準による罪と罰が成立します。



 ところが、教義によって殴られる場合は



「基準や規範を定めている主体と、ムチをふるう主体が異なる」


ということが起きてしまうのです。




 これは尼崎でおきた連続殺人(支配服従)事件の構造と同じで、主犯である角田容疑者の命令によって、その家族や親族が、互いに暴力を振るいあうように仕向けられていた



のとまったく同じ構図です。






 規範の主体が別にあり、暴力者は、その意図を汲み取って暴力を正当化し、そうすることで、自分は


「正しい」


と正の教化を受けていくという、ヤバい状態にほかなりません。






 ==========





  お父さんと先生が、暴力を振るう場合は、「自分という基準」がありますから、



「これは、怒鳴るレベル」

「これは顔面をハツるレベル」

「これは蹴り飛ばして辞めちまえ!と言うレベル」


などが、ある程度一貫しています。(指導者が分裂症でない限り)






 ところが、基準が他所にある場合は、



「こうするのがよろしかろう」


「これだとさらによろしいに違いない」


「これが望ましいはずだ」



と基準はどんどん忖度によってズレてゆき、エスカレートします。




 だから、集会で居眠りしただけで、ムチ打たれる、なんてことが本気で起きるのです。





 これが、現在のエホバの証人の親子に起きている一部の問題点です。




 私は幸いなことに、ここまでの脅威にされされませんでしたが、心をしっかり持っていない一部の信者は、すでにこの深みにハマっているものと思われます。



 そしてさらに恐ろしいことに、会衆の指導者にはこれをコントロールする術がありません。



 なぜなら彼らも、基準が外部から与えられており、自分のものとはなっていないからです。



 現役JWのみなさんや、元JWの方で、ムチ関係で苦しんだ方は、この考え方を理解すれば、かならず多少救われるはずです。




 このことは大事です。




 なぜなら、ムチを使っていたあなたの親自身が「自分で基準を持てない状態に陥っていた」ということでもあるからです。



 親が、望んでムチを使っていたというよりも、すでに角田容疑者のような悪の支配によって、



知らず知らずのうちに、そうなるように仕向けられていた



可能性があるとすれば、あなたは親たちがなぜそうなったのかを許せるのではないでしょうか?











 































 





 





2017年5月10日水曜日

なぜJW2世には救いがないのか。 ~むしろ、死にたくなる理由~



 前回はエホバの証人2世の特に女性についての苦悩を説明しましたが、



■ ”エホバの証人”の2世女子の生き方は、2つしかない。 ~その絶望と苦悩~
http://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html



今度は男女関係なく、



 JW2世、つまりエホバの証人2世であるだけで、死にたくなる理由



についてまとめてみたいと思います。




 1世信者というのは、それがいかなる形であれ、「救いがある」という厳然たる大きなメリットがあります。


 何か彼、彼女なりの苦しみがあって、それが信仰に触れることで「救われる」「楽になる」「希望が生まれる」という良いことがあるので、信者になってゆくわけです。






 ところが、その信仰が前提であって、それ以外は「この世のもの、サタンの誘惑である」とするエホバの証人の教義からすれば、子供たちの生活は以下のようになるのです。




■ この世のお友達を作ってはダメ。

■ 誕生日や何か神以外を祝ったり記念する行事はダメ。校歌も歌っちゃダメ。

■ 剣道武道をはじめ、争いシーンのあるテレビや漫画はダメ。

■ 娯楽禁止。

■ タバコ・過度のお酒などの薬物的なものはダメ。

■ 自慰なんてもってのほか。 

■ 自由恋愛禁止。

■ 高等教育はダメ。

■ 仕事に励んだらダメ。 奉仕しなさい。

■ 親の言うことと、聖書に書いてあることは絶対。歯向かったら滅びですよ。

■  悪いことをしたり、言いつけを守らないと、でしばきますよ。



 そして、2世のこどもたちの視点で見ると、上記のような禁欲生活が



「これが永遠に続く世界がやってきます(はあと)」



なわけで、




 そんなもんが永遠に続くのやったら、地獄やないかーーーーーー!!!!




という気持ちになるわけですね。




 まるで、どこかの北のほうの国もびっくりな軟禁条例が続き、あまつさえ、反抗するとムチ打ちの刑なわけですから、




 この世の地獄




以外の何者でもありません。



いっそ殺してくれ!いっそ死んでしまいたいわ!



と普通の子供ならなります。




※ちなみに、このブログの筆者は、どちらかというと真面目な神の僕だったので、あまりそこに反抗心は抱きませんでしたが、のちに神そのものに背くことを画策しはじめるのでした。ぐはははは。






 というわけで、客観的に見れば見るほど、



 1世信者の立ち位置と2世信者の立ち位置が大きく異なる



変な宗教だということがわかると思います。



 これは大変によろしくない!







 まさにこの世のマーケティング的経済理論によれば、「世代が変わって、新しい世代の顧客になんのメリットもない商品なんて、売れるわけがない」ということになりますよね。



 そう、つまり「2世信者が受け取って嬉しいと思える、信仰的メリットがない」ことは、この宗教の




本質的な問題点であり、崩壊への自爆装置



であるということなんです。




 ということは何が起きるのか。




 すごく簡単です。団塊の世代以降、80年代に勢力を伸ばしたこの宗教ですが、2世から3世へと移行する期間に、




 かならず信者数が激減し、金銭的にも体制が苦しくなる




ことは必定です。つまり、ハルマゲドンの前に、エホバの証人という体制そのものが、滅びを迎えるわけです。





 というわけで、今のうちから、



「エホバ難民」



となる信者の方を、きちんとこの世に戻すべく、受け入れ態勢を整える必要があります。



 その準備が、大切ですね。






























2017年4月12日水曜日

”エホバの証人”の2世女子の生き方は、2つしかない。 ~その絶望と苦悩~



 ネット界隈では、エホバの証人の2世のうち、心に大きな悩みを持っていたり、生き方を苦悩している


 2世女子


 がやたらと多いことが目につきます。もちろん、男子にも、組織や教義に対して、いろいろと思うところのある人はいるのでしょうが、少なくともブログやtwitterなどで、


「不安や悩みを公言している人」


というのは圧倒的に女性が多いのです。


 彼女たちは、個人的に自分の身の回りのことを話したり、つぶやいたりしているだけですが、その



根っこの部分、根源的な悩みの本質は、かなりの部分全員同じ



です。


 そのテーマは2つあります。



 一つ目の悩みのテーマは、


『母親との関係。母娘の関係のあり方を巡る苦しみ』


です。これについては、また別に書きたいと思います。


そして、二つ目のテーマも、深刻です。それは


『自身の未来の生き方、2世女子としての人生を巡る苦しみ』


に他なりません。





 どういうことか。




 おなじ女性でも1世の人はまだ救われます。

 愛してくれない夫、無関心な夫がいても自分は信仰で救われ、よそに居場所が見つかるからです。

 同じような境遇の女性の仲間と、傷みを分かち合い、互いに「励まし合い」ながら、活動ができるからです。



 しかし、2世女子は違います。



 同世代を見回すと、経済力のないマザコン2世男子しか転がっておらず、将来そいつと二人で奉仕に全てを捧げる未来しか想像出来ないときに、


 苦悩と絶望


に苛(さいな)まされるのです。




~~~~~~~~~~



 エホバの証人の2世女子には、



■  自分がひとりぼっちで奉仕活動に一生を捧げるか


■  経済力と社会的立場のない2世の夫と人生を組織に捧げるか



の2択しかありません。


 そして、それが母親の言うところの



幸福



なのだそうで、その幸福を受け入れることが幸福なんだと自分に言い聞かせている最中です。



 だから、多くの2世女子は、その話の「なんとなく、受け入れがたい怪しい感じ」にもやもやして、不安定になるのです。





~~~~~~~~~~



 もっとやわらかく言えば、こういうことです。


 1世女子は、夫に愛されなくとも神の愛を実感できるならそれで充たされるかもしれないが、


 2世女子にとって神の愛や加護とは、



「あたしを心から愛してくれる人との出会いを与えてくれること」



であって、


「神の方を向いていてあたしを見ていない人を、夫としてあてがわれること」



ではないのです。



 それくらいなら、一人で生きていかざるを得ない、ということで、それは、


「永遠に女性としては充たされない」


ことを暗に意味します。



~~~~~~~~~~


 この世の女性であれば、そこで「ああ、じゃあ私は仕事に生きるわ」とキャリアウーマンへの道へ転進することもできるでしょう。


 しかし、エホバの証人である限り、いくら奉仕活動に人生のすべてを注いでも、(神からは認められるかもしれませんが)、残念ながら組織には認めてもらえません。





 なぜか。




 ここで、ズバリ恐ろしいことを言います。




 ここまで読んでしまった2世女子は、心を撃ち抜かれることでしょう。





 ええ、そうです。2世女子がエホバの証人として全力を注いでも、認められない理由。





 それは、エホバの証人とは、「男尊女卑」の組織だからです。




 ・・・・・・うすうすは気付いていても、ここまではっきり書くとショックでしょうね。



 長老になるのは男です。


 妻は夫に従うべきです。


 聖書にも、男尊女卑の思想が貫かれています。



 だったら、それに気付いてしまった女子は泣くしかないでしょう。


 嗚咽するしかないじゃないですか。





 私は、その絶望からあなたを救いたいと思います。


 













 

















2017年4月9日日曜日

エホバの証人 その1世と2世の違い ~あなたの心が求めているのは、神かそれとも・・・・・・。~



 前回の記事
 
なぜ母はエホバの証人にのめりこみ、その娘は苦しむのか?
http://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html


でも書きましたが、私は自身の経験や学識を交えて2つの観点からエホバの証人の2世の問題について見ています。


 一つは、宗教面・信仰面における1世・2世であるという信者としての思想信条の問題、それからもう一つは、そこから宗教を取り除いた「親子関係」の問題の両面を念頭に置いているというわけです。


 エホバの証人の子供たちは、「自分たちは2世という特殊な状況にあって、そのために苦しんでいる」と思いがちですが、それはこの宗教に特有の選民思想の影響を少なからず受けていて、外部の人間から見れば、


「そういう特殊な状況」


とは、別に宗教だけでなく、片親とかDVとか、貧困とか、家族を取り巻く諸問題においては、


「(この世の人でも)みんな似たような状況は、実は存在するんだ」


というオチだったりするわけです。





~~~~~~~~~~~




 まあ、このあたりは、個別のケースによっても違うので、手助けが必要な人がいればアドバイスくらいはいくらでもしますが、今日はそこへ行く前段階として



「そもそも1世と2世の違い、抱えている根源的な闇はどのように異なるのか」


について、簡単に書きたいと思います。





  1世信者は、自ら入信していますので、「この世界(この世)において悩みを抱えた人」が、エホバの証人の思想教義に触れて、

「自分は救われる(選ばれる)」

と感じた人たちということになります。


 つまり、ネガティブな状況からポジティブな状況への転換があり、そこに「救い」があって、その救いを継続するために


「教えを守り続けたい、続けよう」


という能動的意思がそこにある、ということなのです。




 しかし、2世信者は、最初から悩みなんてものはなく、親が従っている教義において「こうあらねばならない、ということは、たぶんそうなんだろう」という受動的な意思で動いています。


 酷い言い方をすれば、2世信者ははなっから「神なんて求めていなかった」のです。なぜなら、苦しみとその代替としての救いを経験していないからです。



 そうすると、2世信者の目の前に並べられるのは、数々の規範規則や、遵守すべき行動内容ばかりということになり、

「本来求めていた親子間の愛着愛情よりも、規範規則が上位に来る生活」

に縛られることになるのです。


 ということは2世の子供たちにとって「渇望しているのは親との情愛なのに、それはいつまでたっても充たされない」ということが起きます。


 表面的には従順であるこども像を演じていれば親から褒められることはあっても、それは親の内面から出てくるものではなく、組織からのものである、ということにも本能的に気付いてしまうんですね。


 だから、彼らが求めているのは、神ではなく、親の本来与えられるべきであった愛情そのものだということになるわけです。



 この愛着障害状態は、宗教関係無しです。


 いわゆる毒親に生まれ、別段宗教に入ってなくても「親子関係に問題がある」場合は多々生じます。その子供達が求める愛情と、エホバの証人の2世が求める愛情には、



 本質的にはそれほど違いはありません。

 (↑ここ大事)




 ところが、2世信者は、この世と隔絶されていることもあって、「自分のこの悩みは、特有のものであり、理解してくれる人はほとんどいないだろう」と思いがちです。


(実際にはそうではない)



 そこで、組織下にありながら日々を悶々とすごし、表向きの模範的(霊的)な生活を過ごしながら、愛着に飢えるという悪循環を繰り返すことになるのです。






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 私は教員時代に、宗教関係なくものすごい数の「通常の意味で」親子の愛着に課題を抱えている生徒と接してきました。


 これを支えたり励ましたり、時には怒鳴りつけたりしながら、なんとかそれらしい自立の道へと送りだしてきたわけなのですが、このステップは、エホバの証人の2世のこどもたちにも


 使える!!!



と思いながら、その生かし方を検討している最中です。





 
  理想論としては


親 → こどもを向いている

子 → 親を向いている


つまり 親→ ←子 の向き合う関係が構築されていればいいのですが、実際は


親 → 神(組織)を向いている

子 → 親を向いている


つまり 子 → 親 → 神・組織 という、親にそっぽを向かれている関係が続きます。




 本当は、こどもたちは、大好きな親に、なんのバイアスもなしにちゃんと向き合って愛情を感じ合いたいと思っているだけなのです。



 そんな難しいことは言ってない。



「おとうさん、おかあさんが好き」


「わたしもあなたが好き(無条件に)」


ということを確認したいだけなのです。




でも、教義というものによって、その純粋な感情はアンビバレントなものになってしまう。条件付のバイアスがかかってしまうので、子供たちは泣きたくなるのです。










 ここで、必要なのは、とてもシンプルな解決法で、


 誰か → 子 


誰かがこどもをちゃんと見つめることができればいいわけです。親の代理ではありますが、


 誰か → ← 子


が向き合うことができる関係を擬似的に構築できれば、第一段階はクリアできます。


(学校の先生というヤツは、こういう介入の仕方をするのが仕事であり、プロです)





 ですが、この誰かは第三者なので、第ニ段階が必ず生じます。誰かが子供ときちんと向き合ったとして、それはそもそも擬似的な親子関係の代替なので、



本物の親子関係(向き合う人間関係)を修復する必要



は残ったままだったりします。もちろん時間はかかります。



 逆に言えば、もし、本物の親子関係が修復できないのであれば、この擬似的な誰かと子供の関係は


「納得のいく、落しどころのある向き合う関係」


に収束させねばなりません。



 わかりやすい例でいえば、たとえば子ときちんと向き合ってくれた人物が、その子と結婚をするなんてことが起きれば、二人はとても幸せになれることでしょう。


 「これは、愛なんだね」


という納得感のある、落しどころのある向き合う関係になるので、仮に両親とは疎遠であっても生きていけるわけです。



 ちなみに、ここで愛という言葉を書きましたが、これは上の例では「男女」にしちゃいましたが、いわゆる4つの愛ならどれでも成立します。



 きちんと向き合える誰か、がしっかりとした友人(フィリア)であってもいいし、男女の間の恋(エロス)でもいいでしょう。



 本来なら親子の愛(ストルゲー)の代替なので、こちらもしっかりとしたきょうだいがいれば、兄弟・姉妹間の絆(これもストルゲー)でもかまいません。





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 さて、ここに出てこなかったのが、神からの無償の愛であるアガペーさんなのですが、さすがに神はエホバの証人のこどもたちの前には光臨してこないので、これは無理かも(笑)


 ただ、私は個人的には、この神からの愛を擬似的に再現する、という試みをやってます。


 (これはあくまでも私個人の話です)



 言い方を変えれば、人が神になろうとするおこがましい行為なので、ほめられたもんではありません。


 まあ、この話は、メインのブログのほうに書いていますので、好きな方はどうぞ。

 


2017年3月30日木曜日

なぜ母はエホバの証人にのめりこみ、その娘は苦しむのか?



 これまでは主に、エホバの証人を辞めた人を想定しながら文章を書いていましたが、今回は少し目線を変えて


 エホバの証人の現役の方、そして二世の人、特に女子


を仮想的な読者としながら書いてみたいと思います。






 その前に、私のことについて簡単に説明しておきましょう。



 この文章の書き手は、もうずいぶん昔に、エホバの証人の2世として活動していました。まず母親が入信し、そののちに父親が入信、両親ともにバプテスマを受けていましたが、私はその後、両親より先にこどもの立場ながら離反しました。


 私は、バプテスマも受けず、研究生のような立場でもありませんでしたの、ただ純粋に、いわゆる2世として生きてきたことになります。



 さて、その後、彼らの言葉でいうところの「世の人」として生きたわけですが、 大学へ進学し、高等学校の教師となり、今度は世の人たちの中にある「子供たち」と接することが多くなったわけです。



(現在では教師の仕事はしておらず、全く別の業界で管理職をしています)



 教師の仕事をしていると、問題や悩みを抱えた生徒と多数向き合うことになります。実際に臨床的な現場で、そうした子供たちとバトルを繰り広げてきたのですが、今その職場を去って、


 エホバの証人の2世として育てられた子供たち


の吐露・つぶやきをネットなどで見ていると、



 ■ 毒親と言われるような親に育てられてメンタルをやられている子供たちや

 ■ 家族のあり方、成り立ちの上で何らかの欠損や欠落を感じている子供たちや

 ■ 進路・自立・就職・進学・経済的生活の上で、制限や困難を感じている子供たちや

 ■  親の無理解や愛着に関わるような問題を抱えている子供たち


が、2世の子供たちの現状・姿とかなりの部分オーバーラップしていることが判明してきたのです。



 男子は、内側にこもるのであまりSNSなどでも語りたがりませんが、特に2世女子の感情が爆発したときの暴言・投げやり・攻撃性などは、



 いわゆる家庭に問題があってグレている女子たち



とそっくりです。





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 これらの事象を、単純に


「愛着障害」「母子分離不安」「規律と体罰による精神不安」「二重規律(アンビバレント)による不安」など


と分類するのは簡単ですが、実際には複雑にそれらの要素が絡み合ったり、


「世の人である父」と「信者である母」の間に挟まれた擬似的な父性の欠損


など、宗教の教義にも関わるいくつかの要素が加わったりしながら、2世女子たちの心のざわめきが形成されてゆくものと考えられます。




 エホバの証人になる信者の特徴は、圧倒的に「母」・「妻」という女性から入信することが多い、ということが挙げられます。


 男性が単独で入信することが少なく、女性が魅力を感じ、そしてその娘達が葛藤を抱えるという構造は、何かしら


「原因、理由、システム上の意味」(教義との親和性)


があるのではないかと疑わざるを得ません。(それについて正面から解読した臨床データはないと思いますが)





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 細かいことは、個別の事例などが異なるので、ここでは逐一詳しく述べることもできませんが、ざっくりと定義するならば、


<エホバの証人と女性信者は、なぜ親和性が高いのか>


という隠れた事実があるならば、そこには以下のようなポイントがありそうです。



■ エホバの証人の教義の核となるのは「選民思想」であり、現実的には抑圧や放置・無関心などの境遇に置かれた女性たち(主に妻たちなど)が、「あなたは愛されている」という感覚を得ること。


■ その「愛情の伝達」が男性ではなく、女性たち同士で行われることによる、性的なダメージの少なさ(男性から与えられるものだと、性愛に結びつくから)


■ 選民意識と仲間意識をベースにした「愛される被造物としてどうあるべきか」という女性同士の、一周回って相互に対しての「マウンティング」の変化形・相互監視空間


■  女性たち同士で行われるゆえに生じる「母娘間での関係性のゆらぎやねじれ」
  (親子という支配・被支配の関係が、母のポジションに影響を及ぼすこと)


※こうした女性同士での関係性の構築やマウンティングは、アムウェイや一部の化粧品会社などの「女性型ネットワークビジネス」との類似性が想起されます。




 世の人としての事例でいえば、つまり学校教育におけるグレた女生徒の問題を突き詰めると、特に母子関係の不安定さに原因があるものが多々あることがわかっています。


  これをエホバの証人の内部における母子関係に見立てると、ここにも同じような母子関係の不安定さが隠れていることがわかります。




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 とまあ、ここまで色々述べてきましたが、解決策は構築できそうな気がするんですよね~。


 アムウェイにのめり込む母、そのものは目を覚まさせるのは難しいかもしれませんが、娘をよい方向へサポートするくらいは、通常の学校教育の手法でも応用できる気がしています。



 このあたりはまた書きます。