2018年11月6日火曜日

外国での奉仕活動における悲しい出来事について



 グアテマラに奉仕活動に行っていた若い姉妹が強盗被害に遭い、1人は亡くなられたというニュースを聞き、心を痛めているところです。


 亡くなられた方、そして被害に遭われた方には、心より哀悼の気持ちを持っています。



 しかし、この事件については、ツイッターなどでみなさんの意見を読んでいると、いろいろな受け止め方があるように思います。


 客観的には、この「受け止め方」によって、エホバの証人を辞めた方のそれぞれの現在の状況や、あるいはその傾向、性格、思考パターンなどがにじみ出てくるものとなっていることに気付かされます。


 ツイートなさっている方は、そこまで自分の傾向について感じていないかもしれませんが、少し自分を客観視することで、エホバの証人から離れた後の世界観の構築に役立つ場合があるかもしれません。


 なお、これから書くことは、特定の個人の考え方について、批評批判するものではありません。全体の傾向、おおきな受け止め方の類型としてお話します。





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■ 事件を知って、「自分もそうなったであろう」と感じる人


 私も海外ではありませんが、国内でいわゆる「必要とされる場所」へ移動しての伝道活動に従事したことがあります。

 元エホバの証人のみなさまにおいても、海外で活動した経験がある方も、少なくはないようです。

 こうした人たちは、ふだんの日常生活から離れて、ある意味、信仰や教義において、「そこへ行き、活動する」という覚悟を一度は持った方でしょうから、「それが結果的に妄信に過ぎなかった」かどうかは別にして、宗教の論理については一定の理解と共感を有していると考えます。


 この時に「自分もおなじ事態に遭遇したであろう」と想像することはごく自然なことだと思います。


ところが、現在こうした人たちは「もはやエホバの証人ではない」わけですから、海外などでの伝道活動に行ってしまう気持ちも理解しながら、今から振り返ってみると「それは恐ろしいことだったのだな」という気付きも得ていることになります。


 この「理解できる気持ち、あるいは自主的に行ってしまう気持ち」と「それがいろいろと問題や危険を内包する行為だったと振り返る気持ち」の2つが同時にやってくるわけですから、一言で説明できないような「複雑な心境」になる、ということかもしれません。


 
 私は、こうした視点は重要だと考えています。この2つが合い反する感情の中で、こちらのセカイでどのように生きていくかを自問してゆくことや、あるいは2つの立場を客観視してゆくこと、相対化してゆくことは、新しい人生を送るカギとなると考えます。








■ 「そんなところに送るのは、組織にも責任がある」と考える人


  危険な地域や、困難な地域での奉仕活動を行うのは、自己責任でしょうか。それとも、そうしたところでの活動を推奨する組織の責任でしょうか。


 答えは、「どちらにも責任がある」ということだと思います。


 そのため、当然ながら組織にも責任があります。そして、行った人にもそれ相応の責任と覚悟が必要なことでしょう。


 オウム真理教の事件で、教祖と信者はテロ行為を行いました。かの事件では当然、教祖にも責任があるし、実行犯にも責任があります。そしてその通りにどちらも刑死という形で責任を取らされました。


 ですので、どちらにも責任がある、ということそのものは事実であり、まったくもってその通りですが、もし、それを発言する人の心の中に


「だまされて行っているのだから、本来は組織がとても悪いはずだ」

「組織はそうならないように注意すべきだ」

「どうしてこの件について組織はコメントをしないのか」


といったことが思い浮かぶのであれば、少しだけ注意が必要な状態にある、と気をつけたほうがいいかもしれません。


 なぜ、そんなことをお話するのかといえば、次の例を考えてみましょう。


「オレオレ詐欺グループがいて、その組織の上部から、末端の受け子に向かって『さあ、老人からお金をとってこい』という命令が発せられ、その通りに受け子が実行した」


 とします。当然のことながら、組織の上部も受け子も、犯罪者です。どちらにも責任があります。


 さて、この時


「受け子はだまされているので、本来は組織が悪いはずだ」

「組織はそんな悪事をさせないようにするべきだ」

「組織は受け子が捕まったことに対してコメントをするべきだ」


と考えるならば、少し、というか、かなり変な考え方をしていると気付くことになります。



 エホバの証人の組織と、悪の組織と、構造は同じです。つまり、エホバの証人はもともと一般常識や責任を取るといった事柄とは


「かけ離れた・逸脱した」


行為を行っている(それが信仰というもの)なのですから、逸脱している人に向かって「責任を感じないのか!感じるべきだ」というのは、それを主張することは、無駄ではないにしろ


たぶん、それ自体は無意味


であろう、ということなのです。そもそも組織とは、無責任な存在なのですから。




 そうではなくて、一般の人たちからみれば「組織も当然怖い」ことは普通ながら、「実際にそこへ行ってしまう末端の信者も怖いしヤバい」と感じるのが当然なのです。


 つまり、最初に戻りますが、どちらも同罪です。


 ですから、もしこの件について、組織の責任についてとても気になる人がいるとしたら、その人には


「自分(側)の責任として自覚する気持ちが弱いか、他者に責任を持ってもらいたいという依存傾向がある」


ということに注意なさるとよいと思います。



あるいは


「エホバの証人の組織がまともであってほしい」

「まともな組織になってほしい」


という願望がどこかに隠れているのかもしれません。






☆ もし「伝道活動は悪いことではない、悪事を行っているわけではないので、伝道者は悪ではない」という思考パターンの人がいるとすれば、その方はまだ洗脳が残っている可能性があります。


「伝道活動は、組織と一緒に行っている悪事である」


という視点を一度持って、捉えなおすと違う考え方が生まれるかもしれません。











 ■ 殉教は、ある意味幸せだったのではないか、と感じる人


  自分が自分で物事を決定し、自らの信念によってそれに添って生きてゆき、その結果として残念ながら非業の死を遂げた、ということは


「自分の信じるものに一生を捧げた」


ということになり、それはそれでひとつの幸せの形だという考え方です。


 今回、私達は宗教について考えているので、どうしても意見がひねくれてしまいますが、


「芸術に一生を捧げて、芸術の途上で非業の死を遂げた」


とか


「作家が文学に苦悩に苦悩し、あるいは自殺した」


とか、そういう事態であれば「それはその人の生き方として、仕方がなかったのではないか」と感じる部分もあると思います。



 なので、こうした視点で物事を捉える人は、基本的には「相手の立場を重んじる」タイプであると思います。


 となると、同時にこうした人は「彼の世界は彼の世界」「わたしの世界はわたしの世界」であると、なってしまうので互いに干渉しません。


 干渉しないわけですから、こうした考えの人たちとは、議論論争には、基本的にはなりにくいと言えるでしょう。


 ただ、今回の問題については、「そもそもその信じるところが事実として正しいことに基づいているかどうか」については、ひっかかりを誰もが覚えるところです。



『そもそもエホバの証人の教えが正しいのであれば、それはそれで幸せなのかもしれないが、教えが間違っていたのなら、無駄死にになってしまう』


という意見があるということですね。




 しかし、これまた踏み込めない領域があることも事実です。


「何が正しいか、何が間違っているかを判断することは、他人ではなく自分にこそある」


ということもまた事実だからです。



 わたしたちは、自分の親しい人にできるだけ真実に基づいて何かを判断したり、信じてほしいと願っており、そのために行動することはいくらでもできますが、最終的に何かを決めるのは



「その人」



にしかできないことです。



 自分の生き方は、自分しか決められない



これは人類普遍の真理かもしれません。





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 この事件については、多くの人が、痛ましい出来事ゆえに


「そのままのストレートな感情」


をコメントとして表出しています。だからこそ意見の違いがはっきり現れます。



 あるコメントがよくて、あるコメントが悪いといった問題ではまったくありません。



 自分と異なる受け止め方をしている人がいれば、そうした意見を見聞きしながら、自分の生き方について考えるヒントとできればよいのではないかな、と感じます。