2017年7月25日火曜日

よくわかる 「エホバの証人とムチ(鞭)」の話 ~ムチ・トラウマも今日ですっきり解消!~



 エホバの証人の2世の子供達が、大人になってもずっと幼少時からの



 トラウマ



として心の傷になっている出来事として「ムチ(鞭)」の話があります。



 信者以外には伝わらないのですが、エホバの証人の2世の子供たちは、ちょっと悪さをしたり、集会中に居眠りをしたり、親や聖書に反することをすると



 ムチでしばかれる



という体験をするわけですが、 これが子供心に恐怖体験としていまだに残っているわけです。



 で、その恐怖とそれに対しての怒りの矛先が



「親と組織」



に向くわけですね。



「あの頃、ムチでしばきやがった親に対しての憎しみや不信感」


そして


「それを励行していた組織への怒り」


みたいなものを抱く2世は多いようです。



 しかし、そんな過去のトラウマをいつまでも引きずっていたり、それに囚われていては新しい人生も歩めないし、親ときちんとまっとうに向き合うこともできないので、今日は



「そういえば、あのムチって一体全体なんだったんだ?」



ということをすっきり解決して、新しい明日へ歩き出してもらおうと思います。というわけで、きちんと理解してすっきりしてください。





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 はい。そこで、今日のポイントは3つです。



■ あのムチはエホバの証人の専売特許ではなく、キリスト教の文化だ

 
■ ムチでしばかれるのは、「怒られているのではなく、元はイエスの追体験」


■ あのムチは、夜になるとエロい道具に変身するのだ!





 さあ、驚きのポイントを3つ挙げました。一つずつ解説します。




<1> ムチ(鞭)はキリスト教圏の文化である件

  エホバの証人だから鞭が登場するわけではなく、キリスト教圏ではあのムチは「当たり前の道具」として登場します。

 海外の人が、こどもに「おしりぺんぺんですよ!」としつけをする場合は、あのムチが自動的に登場するわけですね。


 ウィキペディアより「尻たたき」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BB%E5%8F%A9%E3%81%8D





 というわけで、欧米では宗教関係無く「指導者が生徒の尻をムチで叩く」という行為はけっこう当たり前に行われていたのですが、エホバの証人はアメリカの宗教なので、


 それを自動的に取り入れた


わけです。


 なので、日本では「ムチでおしりをたたかれる行為」はなんだか特別な虐待行為のように思われますが、欧米では意外と今でもふつうにやられている、という理解は大事。


(つまり、エホバの証人は特殊な事例ではなく、世界中にムチでしばかれたお友達がいる、ということです)







<2> ムチ(鞭)はイエスと密接に結びついている


 さて、キリスト教圏ではムチが普及しているわけですが、その理由はもちろんキリスト教のカトリックと関係します。


 この背景を知るには映画の「ダヴィンチ・コード」をいますぐ借りてきて見るのがわかりやすいです。

 見たことがない人は、すぐにレンタルしてきてください。


 ダヴィンチ・コードは、簡単にいえば「イエスに子孫がいた」という話なのですが、カトリック側の刺客としてオプス・ディの兄ちゃんが登場します。


 この兄ちゃんが、トゲトゲを体にまきつけては、ムチで自分をしばきまくるシーンが出てきます。



 これが、キリスト教圏でのムチの原点です。ようするに「イエスが受けた苦しみを自分も追体験することで信仰をより強くする」というわけですね。


 変態ですが。



 オプスディの解説をちょっと読んでみましょう。

 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4 




鞭や鎖を使用する肉 体的苦行は、カトリック教会においては非常に伝統的であり、かつ現代でも行われている





使用される鞭は、紐(ひも)を編んだ物で、金属やその他固い部分はなく、体に傷跡が残るような使い方ができないもの




 通常、週一回、「主の祈り」などカトリックの代表的な短い祈りを唱える間、自らが加減して使用します。




 ようするに、カトリックの苦行体験(修行)として、ムチを使うわけです。これが、変化して、上位者から下位者への指導としてのムチ使用が行われるようになってきました。




<3> 性的嗜好としてのパドリング


  ムチ(鞭)でしばかれると、それがトラウマになって、性趣向として記憶に残る場合があります。欧米の子供たちはおしりを叩かれる体験は日常ですので、いわゆる


 赤ちゃんプレイ


のような形で鞭が登場します。


 エホバの証人にとっては「聖句などが入った神聖なムチ」ですが、あれが世の中で出回ると、


「エッチなことばが入った、プレイの道具」


と化します。


 特に欧米ではそうです。あんなもんバッグに入れてたら、ど変態です。


 パドルという言葉で検索すると、なんということでしょう。




 とっても使い勝手のよさそうなムチがやまほど画像ででてくるはずです。



 アマゾンでも売ってます。


 また形状やら言葉が入っているところがエホバの証人が使っているものと似ていて面白いでしょ?

 これがキリスト教文化にひっぱられていることの証なのです。



 日本のエホバの証人は、内部の目線しかないので、海外からみるとこういう道具だということを知りません。きゃ、はずかしい。




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 というわけで、これまでムチの記憶に心を痛めていた人、あんなもん欧米のエロい道具とおなじなので、一刻も早く忘れて、「どうでもいいわ」と思ってください。



 むしろ、あのムチに囚われすぎていると




 変な性癖




を持ってしまう可能性もあります。これで、明日からすっきりですね!





 

2017年7月20日木曜日

 エホバとコーヒーと浣腸  の接点。 ~「部屋とワイシャツと私」じゃないんだから~




  エホバの証人になってしまう人は、



 「ものすごい病に侵されていて、今にも救いを求めている人」





「会社や地域でひどい状況に置かれていて、もう死にそうな人」



というわけではなかったりします。



 そう、意外と



普通の人、ふつうだと思われる人



がじわりじわりと信仰にハマっていったりするのはよくあること。





 今日は、直接的にはエホバの証人さんとは無関係ですが、



「トンデモ健康情報」から、健康カルトにハマった人の話



でも読みながら、わが身を振り返ってみたいと思います。




 トンデモ健康情報で家庭が崩壊した男性が語る、元妻の変化
 https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/kenkobon-03?utm_term=.wp3Pv447d#.efwjGnnr8

(BuzzFeedNewsより)





 ”加害者であり、被害者にもなるのは、身近な普通の人”



 ”誰でも疑わず、信じているささいなことが取り返しのつかない事態に”



 ”身内を疑うという発想がなかった”



 ”真実を知らない人、と下に見て、バカにするような態度を取るように”



 ”信じたいものを信じたいように信じる”



 ”彼女は肯定してほしかったんだと思います”



 ”伝道により承認欲求が満たされ、自己肯定感が得られてしまう”




 いやあ、身につまされますね。まるでどこかの誰かのお話を見ているようです。



 でも、この話はエホバや真理についてではなく、



 コーヒー浣腸



から始まっているというから苦笑する以外にありません。カルトたるもの、神も浣腸も同レベルだということです。




 できる限り良いモノを摂取したり、よいことをしたいと思うのは、すべての人に共通の当たり前の感覚だと思います。



 しかし、その「良いモノ、よいこと」の規準を正しい知識や客観的な視点でみることができないと、



「誰かの一方的な意見にハマってしまう」



という落とし穴があるわけです。



 それは、健康食品でも王国の良いたよりでも、全く同じことです。




 辞めJさんには、こういうバイアスのかかった情報に対する「ひっぱられ癖」がついている人が多いと思うので、ぜひ何事も自分の頭と心でしっかり考えるようにしてほしいものです。



 


2017年7月12日水曜日

毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~




 7月に入って、毎日新聞で「毒親」について女優の渡辺えりさんが回答したこともあって、ネット界隈では



「毒親問題」





がちょっとした関心を集めるようになっているようです。





 (参考)


■【毒親】何か気に入らないことがあるとすぐ寝込む母について19歳女性が相談
https://togetter.com/li/1126714




その前後にも、毒親関連の記事はちょくちょく話題になっていて、



■まさか自分が・・・多くの親に潜む「毒親」の兆候

http://toyokeizai.net/articles/-/172443



■両親ともに毒親 父親から「虚言癖」と言われたことがトラウマに

http://blogos.com/article/220918/



■もしかして私も?「毒親予備軍」の特徴とチェックポイント


http://ure.pia.co.jp/articles/-/74581



など、この春頃から記事になっているものがたくさんあります。





 ちなみに、このブログは特定の宗教についてスポットを当てていますが、


「毒親であるかどうかは、宗教とは関係ない」




とも言えるし、



「宗教のせいで毒親になるわけでもない」



ということは、把握しておいて良いと思います。


 それよりもむしろ


「もともと毒親であったものが、宗教のせいでよりひどく発現してしまう」





ことはあり得るでしょう。 教義でこうなっているので、私は正しいのだという動機づけがなされるからです。





 当事者として、この問題にどのような解決を得ればいいかは、最終的には人それぞれですが、




ひびわれたまご さんのブログ

http://blog.shinoegg.com/entry/2017/07/11/224141




などは参考になるかもしれません。





 この記事では



段階1  親に無条件で受け入れて欲しいと願っている希望


 

段階2  それがかなわないのは自分のせいであると考えてしまう過ち


段階3  あるいは親がすべて悪いと考えて拒絶すること


段階4  親に完璧さを求めず、それぞれが別個の人間であると理解する


段階5  実は「親が好きか嫌いか」とか「親が正しいか間違っているかとは、次元が離れているのではないか、と気付く




 といういくつかのステップについても触れられているので、それぞれの立場で共感を得やすいかもしれません。






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 さて、両親がJWの信者であり、自身は元2世で、かつ今となっては子供を持つ親である武庫川の考えは、これらすべてを包括したものとなっています。




 まず、親の立場で考えてみましょう。




「親はすべてにおいて完璧な指導者、保護者であるべきであり、そうでないものは親にはなれない」



という理想像があるとして、この理想にあてはまる人間はおそらく誰もいないと思います。



 イエスのたとえではありませんが



「この中で、親としてふさわしいものだけが、親になってよい」



と言うならば、その場の全員が立ち去ることになるかもしれません。




 ところが、この理想像は間違いで、「親としての資質を備えていなくても、妊娠と出産が可能」なようにすべての生き物は作られているわけです。



 ひどい場合には、「父親が誰であるかわからなくても妊娠が可能」であることを考えれば、親である資質や資格なんてものは、



 机上の空論である




とまで言っても過言ではありません。



(もし、資質がなければ産んではいけないなら、レイプのよって妊娠した子は全員堕胎させられねばならなくなってしまいます。それは変です)





 つまり、何度もいいますが、




「親であることは、資格や資質と結びついたものではなく、それが保証もされていなければ、確約もされていない」





ことが大前提なのです。






 そうすると、すべての親は誰しもはじめて親になるのですから、



「親ではなかったものが親であろうと頑張っているだけで、結果が伴うかどうかはわからない」



ということになります。




 そう、すべての親はダメ親である、ということからスタートするのです。





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 ここまでは、親サイドからの考え方でした。




 しかし、子供のうけとめ方は異なります。



「唯一絶対の存在である親に対しては、庇護してほしい」




と願うことは、これまた当然です。



 そして、「親の庇護の方法が、少なくとも小さい間には、それしかない唯一の知りえる存在である」ということも、実態としては当然なのです。






 厳密には、これは「核家族化された資本主義社会において起きる問題点」であって、人類共通の問題点ではありません。




  世界中のヒトの生活実態を見れば、ヒトは多くの国や地域でもう少し部族・氏族集団で生活をするので、



「親代わりに相当する大人や親族が廻りにたくさんおり、それらの中で相対的に親が存在する」



というスタイルのほうが、一般的です。




 父と母と子の閉ざされた集団で完結する枠組みで考えるから、両親が機能不全であればバックアップがまったくなくなるのであって、ヒトの本来の生活スタイルでは、



「毒親は存在しても、子に客観的な立場と逃げ場はたくさんある」




といえるでしょう。



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 残念ながら、毒親しか存在しない環境で閉鎖されて育ってしまった人は、某北の国で生まれ育って、そのほかの国を知らないで餓死した人のようなもので、


「自分の親がおかしいと気付かず、育ってしまう」



ことになります。


 なので、気付く以前のことは、某北の国とおなじでどうにもならないので、



 「気付いた後をどう生きるか」




しかありません。




 では、某北の国と同じなのであれば、できることはひとつです。


 それは、「脱親(離れる)」こと。


 新しい価値観の元で生きていくことです。




 脱Jの上に、脱親だなんて、エホバの証人の2世は、2度苦しむことになるのですね。



 

2017年7月1日土曜日

カルトなどの宗教を脱した人のための「新しい歩き方」 エホバの証人を辞めたあなたへ




 エホバの証人に限らず、カルトなどの「洗脳的支配」から脱した人には、どのようなプロセスを経て立ち直ることができるのでしょうか。



 これが、正解、というものではありませんが、ある一定の道筋のようなものはあってもよいかもしれません。



 そこで、私がネット界隈で遭遇した辞めJさんたちの言動や生き方をほわっと丸めながら、その歩き方をまとめてみましたのでご参考に。



(一度、ツイッターで呟いた内容の補足です)




 このプロセスは、以下のような流れになります。





■ 過去の振り返りや毒吐き

■ 聖書について真実を知る

■ 霊的にいっぺん死んでゼロになる

■ 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む

■ 自分が存在する意義の再構築

■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


などなど。





■1 過去の振り返りや毒吐き


 毒親的な1世親に育てられた2世の方や、あるいは会衆内でなんらかのトラブルに巻き込まれた方、または排斥に逢った方などは、


「自分が不遇な立場にあったり、ぶっちゃけ酷い目にあった」


ということを、ある程度外に放出することは、適していると考えます。


 それを黙って溜め込んだり、なかったことにする必要はありません。外へ出すことで「似た境遇の人の理解や共感を得る」ことができたり、自分の中で「言葉にして処理する」ことができるのであれば、それは有効な作業です。


 しかし、毒吐きは「相手や外部を悪くいうことによって、相対的に自分が善であったり、正義へ変わる」という効果と、同時に罠を生じさせます。



 毒吐きや文句を言うこと、誰かをののしることは「最初だけ許される小さなステップ」だと考えましょう。


 いつまでも毒吐きに終始することは、あなた自身もその毒の罠に陥ってしまうからです。






 ■2 聖書について真実を知る



 聖書に限らず、カルト的信仰が、「外部からどのように見られていたり、客観的事実に基づくと、実はどうだったのか」を確認する作業は大事です。


 信者は、教え込まれた教義のみを見ていますから、それ以外の視点があることで、より真実に近づくことができるのです。


 幸いなことに、聖書に対する学術的な検証や、聖書学としての見地から書かれた資料は、インターネットで多数得ることができます。


 どんな小さな質問でも、たとえばツイッターで投げかければ、答えてくれたり、その典拠を教えてくれる先輩もいることでしょう。



 この作業で大切なのは、「教義から離れる」という感覚です。 自分ではわかっていても、教義にしばられてしまうことは多々あります。


 「これがいけないことなのではないか?」と感じてしまったり、「そうはいっても、自分からは望まないことはできかねる」と思ったりすることは長く続きます。


 それが本当に聖書に由来するのか、立ち止まってみることは有効です。





■3 霊的にいっぺん死んでゼロになる


  私はこの作業を「もういちど逆バプテスマを受けてみること」と呼んでいます。


 一度死んで神に身を捧げたのとおなじことをやりましょう。


 組織や教義に属していたあなたは「一度死んで、まっさらな状態でもういちどこの世界に返ってくる」のです。


 あるいは、「何もないまっしろな世界に、生まれ落ちた状態」を作ってもよいです。


 それは若い人だけでなく、中年でも老人でもおなじです。もう一度まっさらになる、これが大事です。


 歳を取っていると、「組織に属していた年月が無駄になる」とか「その時間を損した」とか「いまさら、こちらの世界で出来ることは少ない」と考えがちですが、違います。



 そうではなく、「あなたには、この世界で生き生きと生きるチャンスを、たった今これから未来に向かって与えられたのだ」と感じてほしいのです。


 これは、ちょっと苦笑しながら書きますが、「エホバからのギフト」です(笑)


 まるで地上に生まれたアダムのように、「まっさら」なのですから、すべての経験は「ドキドキワクワクする良いもの」であるのです。





■4 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む


 エホバの証人を辞めても「この複雑な宇宙や世界が、勝手にできたとは思えない」と感じることは多々あります。


 あるいは、「エホバという名前や性格とは異なっても、なんらかの創造主がいるのではないか」と思うことは当然です。


 ネット界隈の辞めJさんたちは、それぞれの感性でこの問いへの答えを持っています。


 これも、「何が正解」というわけではありませんが、神は存在していたとしても、あなたに厳しい何かをつきつけたりはしない、という感覚を持つことは安らぎとなるでしょう。


 ある先輩は 「神は、人類に干渉しないのだろう」という考えで納得しています。

 またある人は、「神は、人類だけでなく、他の被造物にも平等なのだから、人だけに何か関わってはこない。あるいはその分おなじことを他の被造物にもするはずだ」と考えます。

 あるいは、「神様は、ある種のゲームを楽しんでいる」と考える人もいるし、「箱庭をただ眺めている」と考える人もいるでしょう。


 それらの考えに共通なのは、


 「全知全能の創造主が、人などのちっぽけな行動にとやかくいうのは変だ」


ということです。それは神というより、いかにも人間らしい性格を持たされた、聖書の単なる記述なのかもしれません。






 ■5 自分が存在する意義の再構築


  第4段階くらいまでは、比較的楽に達成するのですが、5段階目くらいから苦しむ人は多いと思います。


 組織や教義によって作り上げられた自分は死んだ、としても、では新しい自分をどのように見つければいいのでしょうか。



 これは、一人では少し難しい作業です。


 多くの辞めJさんたちは、「夫や妻などのパートナーとの支えあい」の中で、新しい生活を再構築なさっている方が多いと感じます。


 
 相手がJW経験者であれ、あるいは世の人であれ、こちらの世界で新しい暮らしを作ってゆくというのは、誰かの助けがほしいところです。


 逆に、自分の家族が組織に残っている場合、ここでかなりヤラれます。


 自分は離れていても、家族の存在意義は組織や教義で構成されているので、分断されてしまうことで「自分の立ち位置まで引き裂かれてしまう」ように感じるのです。


 これをたった一人で戦うのは、かなり苦しいことと言わざるをえません。



 そこで、この点で苦しんでいる人がいれば、先輩である私や、あるいは辞めJさんである程度自分を確立なさっている人の手助けを得てほしいと思います。


 私は個人的には、この段階にいる方を応援します。



 「あなたは愛されるべき存在だよ」と口でいうのは簡単ですが、実の親からプレッシャーをかけられたりすれば、他人の発言より親の発言の方が重くなるのは当たり前です。



 じゃあ、救われないじゃん!と短絡的に落ち込まずに、ここからしっかり再スタートしてほしいのです。


 家族は敵のように感じられるかもしれませんが、あなたにはかならず味方がいると思ってください。







■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


  こちらの世界で生きていくには、「お金」も必要だし、「仕事」も必要です。社会的な意味での「立場」のようなもの(べつに偉くなる必要はないですが、資格であったり、ポジションであったり)も必要になってくるでしょう。



 これは、理念ではなく具体的なノウハウを身につけることが大事です。



 時間や手間がかかるかもしれませんが、中高生が卒業して大人へなってゆくプロセスを、もう一度やり直す必要があるでしょう。


 特に若くして奉仕活動へ入ってしまった方は、本当にこの世での「学び」をやり直さなくてはならない場合が出てきます。


(まあ、やり直すと言っても、そもそもそれを避けて歩いてきているはずなので、ただこの世の人とおなじ通過儀礼を通るだけなんですが(^^;;)







 長々と書きました。それぞれの実情や状況に応じて、自分にとってはどうか考えていただければ、少し楽になるかと思います。



 エホバの証人を辞めることは、「カナンの地を求めて、モーセのグループとは離れて一人で歩き出すこと」になる険しい道のりを意味する場合だってあります。


  それは恐ろしいことのように感じられるかもしれませんが、実は先輩たちはたくさんいますので、彼らの言葉やヒントを羅針盤にしながら、歩き始めてほしいと思います。