2016年5月9日月曜日
【エホバの証人を辞めたあなたのために 5】 イエス・キリストとは何者であったのか。 ~彼が救いたかったのは、イスラエルだけだった!~
さて、この記事まで読み進めたあなたは、すでに「エホバ」という神の呪縛からは解き放たれていると思います。
もしかすると、「創造主」はいるかもしれないけれど、どうやらそれは「エホバ」であったり、「エホバの性格」とは異なる存在らしい、ということぐらいは、すんなり心に入っている状態になっているのではないでしょうか?
こうして旧約聖書の世界観を超越してしまったあなたにとっては、すでに「新約聖書」においても、それがどういう内容であってもどうでもいい状態になっていることではあろうと思いますが、 それでも一応は
イエス・キリスト
が何者であったかぐらいは、知っておいてよいのではないでしょうか?
しかし、その前に、「救世主としてのイエス」像についてまた「ことばのあや」や「誤解」がはびこっているので、そこをしっかり取り除いておくことが必要です。
ここで、毎度おなじみ「驚きの叫び」をみなさんに上げていただこうと思っています。
熱心なキリスト者であったあなたにはにわかには信じられないかもしれませんが、以下のような真実があったとすれば、驚かずにはいられません。
① 大工の息子であるイエスが生きた当時、自称他称を問わず「救世主」を名乗るものは、いっぱいいた。
② 彼らはたくさんのファンを得て、それぞれ盛大に活動していたが、みんな捕まって殺された。
③ 大工の息子イエス同様に、病人を治したり奇跡を行う者も、やたらめったらたくさんいた。
④ 神の国(ユダヤ人の真の独立)を夢見た政治活動家もやたらいたが、みんな捕まった。
⑤ そうした「救世主」っぽい活動をしていた人たちは、聖書以外のローマの記録にやたら出てくる。
・・・簡単に言えば、自称他称を問わない「メシア」はこの時代たくさんいて、革命運動をやっていたり、擬似医療をやってたり、いろいろグループを構成していたことがわかっています。
そして彼らが主張していたことは単純で、
「ローマに支配されたイスラエルをちゃんと正そうぜ!」
ということが基本でした。
つまり、救世主が救世するのは「あの世とか未来の楽園ではなく、腐敗に満ちたローマ支配下のエルサレム」であったことは疑いありません。
もっと、ひらたく言えば、大工の息子イエスは
「めっちゃたくさんいた革命指導者のうちの一人」
であり、
「ローマの飼い犬に成り下がった神殿支配者たちをどつき回した過激派」
であり、
「他の革命過激派たちと同様、やっぱりみんな磔になった」
という人生だったのです。
そしてもっと興味深いことに、イエスやその周辺にいる人々はみな
「日雇い大工」とか「漁師」とか「娼婦」とか、「徴税人(ただし、ほぼ高利貸し)」
ばっかりで、完全に「ナニワ金融道」とか「Vシネマ」の世界ですので、全員ヤンキーであったことは間違いありません。
そんなガリラヤのヤンキーたちが、「いやマジ、政府も神殿も腐ってるんだって!」と言いながら仲間を増やして上京するのが、新約聖書の物語だというわけです。
ではなぜ、そんな地域密着型の「革命家」であった大工の息子イエスの活動が、「全世界を救う」なんて壮大なテーマに置き換わってしまったのでしょうか?
==========
その大きな役割を果たしたのは、「パウロ」であることは、聖書学者たちも認めるところです。
ただし、パウロは、ヤンキーばかりのイエス教団において「先進国のギリシアの知識を持ったインテリ」であったけれども、直系の弟子ではなかったため、
「イエスの直系弟子(基本はイエスの親族)」のグループと、不仲だった
ことがポイントになったと言います。
ご承知の通り、イエスの教団は残った使徒たちによって発展してゆきますが、その後継を担ったのは当然、イエスの親族たちでした。(イエスの兄弟ヤコブ)
この一団は、イスラエルの国内において、残存勢力として頑張っています。
一方、直系弟子ではない「パウロ」は、聖書の中で「異邦人」と呼ばれる、ユダヤ人ではない外人さんに向けて布教を進めます。
ここが大きなポイントなのです。
このブログの最初のほうから説明している通り、基本的に「エホバは、ユダヤ人のことしか救うつもりがない」のは自明の理論です。
そしてまた、その思想を受け継いでいる大工の息子イエスも「イスラエルが救われることしか考えてない」のは当然です。
そんな教えを、諸外国に向けて布教しても
ウケるわけがない
のは、当たり前のことでした。
そこでインテリパウロは、「救いの対象を、まろやかにぼかして、ユダヤ人だけからそれ以外の人々へと広げる」ように説教を変えてゆきました。
つまり、「イエスと神を信仰するものは、救われる」と説き始めたのです。
==========
まあ、このへんの初期キリスト教会の動向は、
使徒ペテロがはじめリーダーだったけど、イエスの兄弟のヤコブが権力をもちはじめたので、ペテロはどっか行ってしまった
とか、
ヤコブが、外人エリアで勝手に伝道しているパウロを呼びつけて「どないやねん」と叱った
とか、いろいろ面白いことがあるので、お好きな方は調べてください。
==========
さて、大工の息子イエスをはじめとした革命家たちが「イスラエルをローマの手から取り戻そう」という機運は、実はイエスの死から30~40年後に実現することになります。
それが、「ユダヤ戦争」という戦いで、イスラエルはローマからの独立を試みますが、結果は
大失敗・大敗北
に終わり、イスラエルは再び叩きのめされるのでありました。
こうして、あの「エホバ」を祭った神殿は破壊され、ユダヤ人の歴史においてとても重要な「離散(ディアスポラ)」を迎えることになるわけです。
この時、実はまたまた興味深い事故が起こります。
そうです。イエスの伝統を受け継いでいたはずの正統派ヤコブたちの初期教会も、エルサレム陥落と同じくして破滅に向かうことになったのでした。
ということは、残ったのはあの人の信仰だけですね?!
はい。そうです。
外人さん向けに「誰でも救われます」にアレンジされたバージョンのキリスト教だけが残り、本家本元の「ユダヤ人だけのためのキリスト教」は衰退することになるのです。
だ・か・ら
今のキリスト教は、基本的に全人類が救われることになってしまったというわけなのです!!!
さあ、ここまで5回に渡って、少々駆け足で
「あなたが信仰してきたものの、本当の中身」
についてお話してきました。
中にはショックで立ち直れない人もいるでしょうが、安心してください。
そんなあなたでも、これからしっかり大地に足をつけて、新しい気持ちで生きてゆくための方法はいくらでもあるからです!
次回からは、そんなお話をすることにしましょう。お楽しみに。
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
【エホバの証人を辞めたあなたのために 4】 唯一絶対神に従わないとマズかった理由は? ~そうだったのか!聖書の不思議~
あなたがエホバの証人の信仰を持っていたときには、あなたはなぜ
「エホバだけを信じなくてはいけない」
と思っていたのでしょうか?
聖書にそう書いてあるから?それとも、誰かにそう言われたから?
いかがでしょう。
ほとんどの人は、「伝道をしてきた、兄弟姉妹にそう言われたから」なんとなくそう信じていったのだと思います。
実は聖書が書かれた時代にもまったくおなじことが起きていました。
「エホバだけを信じなくてはいけない」
というメッセージを発信していた人間がいたのです。
そして、彼や彼らはちゃんと目的があってそのメッセージを聖書に書き連ねてゆきました。
なぜなら、ヘブライ人はとんでもない目にあっていたからです。
そのためには、へブライ人たちがどんな歴史を背負っているかを知らなくてはなりません。
そこで、今回はヘブライ人たちの悲しい歴史を振り返りながら、「神とエホバの成立」の様子を踏まえながら解説したいと思います。
==========
ヘブライ人たちは、そもそもどこからスタートした氏族なのかよくわかっていません。紀元前1207年のエジプトの記録に「イスラエル人がいるらしいよ、あそこらへんに」という記録があるので、その時代にはいたのだろうと考えられています。
しかし、一体どこからやってきたのかは、本当にわかっていません。
そしてもっと興味深いことに、ヘブライ人たちは、「ひとつの氏族」ではなかったらしいのです。いろいろな出自を持つ雑多な人たちの集合体が、いつのまにか
カナンの地方
に根ざし、そのあたりで集合体を作ったというのが真実に近いようです。
そのため、聖書内でよく知っている「12の部族」という氏族も、
「ひとつの部族から12の氏族に分かれた」というよりは、「12種類の別々の人種が集まってできた集合体」
だという考え方のほうが近いそうです。
ただ、これらの人たちにはひとつだけ共通点があって、それが
「いわゆる神やエホバを主に信仰している氏族グループであった」
ことなのだそうです。
当時のエジプト側の記録には、「ヘブライ人?ああ、うちのはじっこのほうの部族だよ」というものもあるらしく、学者の中には「ヘブライ人はエジプト人の一派である」と考える人もいます。
ということは、真実に近いのは
「カナン地方に集合した氏族の中には、地元の氏族やよそからの者や、エジプト系やら、いろいろいた」
ということなのでしょう。
それらのバラバラの部族が、伝説や伝承を持ち寄ったり、集団を形成してゆくことで、聖書の記述がまとまってくるようになりました。
==========
さて、この一団にとって、大きなエピソードが2つ3つくらいあります。
その第一は、やはりモーセのエジプト脱出ですが、これは「ヘブライ人全員の話ではなく、エジプト系の一部のグループの脱出劇」だという説もあります。
第二からはちゃんと全体に関わるものですが、やはり「ダビデ→ソロモン」と自分たちの王国をちゃんと作った!ことが、彼らにとっては重要な出来事でした。
流浪の民であったヘブライ人が、やっと建てた自分たちの王国ですから、ある意味
「最初で、最後の成功体験」
であったことは想像に難くありません。
ですから、のちに新約聖書の時代になっても
「救世主はダビデの子孫から出る」
なんてことが預言されるのには、ちゃんと理由があるわけです。
ダビデとソロモンの時代だけが、ヘブライ人にとって「ひとつの理想の時代」とされたわけです。
さて、この時代に一応の栄華を極めたイスラエル王国でしたが、ここから転落がはじまります。
まず、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、北王国はアッシリアに滅ぼされます。
↑ ここ大事です。試験に出ます。
なぜ大事かというと、この段階で、北王国の10部族がバラバラになり、崩壊してしまうからです。
<失われた10支族>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F10%E6%94%AF%E6%97%8F
ということは、残ったのは南のユダ王国の2部族だけですね。
↑ここも大事です。
以前の記事を思い出してください。
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2016/05/blog-post_55.html
前回の記事で、聖書に出てくる二つの神、「エルもしくはエロヒム」と「エホバ」について説明したときに、
エロヒムは、北部で信仰された神
エホバは南部で信仰された神
だと説明しました。
だから、「エホバ」が聖書のなかで優勢になったのです。北部系の信仰は、南部系の信仰によって上書きされちゃったのです!!!
そして、残ったユダ王国もバビロニアによって滅ぼされます。
でも、のちに彼らは許されて、戻ってきて神殿の再建を許されたこともわすれてはいけません!!
ここから先、復活したユダヤ民族は、部族外の結婚を禁じ、「ユダヤ民族」としての独立性を増してゆくことになりました。
==========
さあ、なんとなくわかったきましたね!
どうして、エホバが聖書全体の統一神へと変化していったのか。
そして、聖書の著者が口がすっぱくなるほど、「エホバに従え」と言うのか。
その理由は、単純で明快です。
「エホバに従ったら王国は栄えるが、従わなければ、えらい目に逢う!!」
それが、聖書の著者たちの実感のこもった主張だったのです。
聖書がの成立のうち、いわゆるモーセ五書については、バビロン捕囚の間に、「自分たちのアイデンテティを確立するためにまとめられた」と考えられています。
もし、あのとき一旦滅んで、そして復活したのが北王国だったら、今頃私たちは
「エルの証人」か「エロヒムの証人」
をやっていたことは間違いないでしょう。
そして、あんまり「ねたむ神、そねむ神であるエホバを恐れず」、もう少しのんびりと創造主をたたえていたことは想像に難くありません。
そうです。
あなたは、本来であれば今のようにエホバがあなたを滅ぼしつくそうとするなんて恐ろしい話におののく必要はなかったのです。
だって、創造主は、すべての生きとし生けるものに公平な方であったでしょうから!
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
【エホバの証人を辞めたあなたのために 3】 創造主とはどんな存在なのだろうか ~少なくとも、エホバさんじゃないってどういうこと?!~
さて、前回の記事で、聖書の中には、簡単にざっくり言うと
「神」についての記述
と
「エホバ」についての記述
が混在していて、これらの神は本来「別々の存在である」というお話をしました。
エホバの証人の用いる、「新世界訳」聖書は、この点は意外なことによく原作を守っていて、いわゆる神聖四文字を「エホバ」と明記しているので、聖書の中の2つの文書の違いが判別しやすくなっています。
それ以外の聖書だと、神の名を伏せるために
「神」と「主」
というわかりにくい区別をしていますが、どちらにしてもこれらの文書は本来別物です。
もちろん、古代からの聖書学者や、キリスト教の信者はこの違いに気づいていました。近代に入って、聖書に書かれていることが本当に事実かどうか調べようとする人が増えれば増えるほど、この違いは研究対象になってゆきます。
すると、面白いことに
「神」の性格
と
「エホバ」の性格
がまったく違っていて、これはもう!明らかに別の神だ!ということが判明してきたのです。
(もっと詳しく書くと、聖書の神はこの2つだけではなく、なんと「バアルさん」まで混じっているらしいので、もっとひどいことになるのですが、ここでは簡単に書いておきます)
いわゆる「神」は聖書の原典では「エル」や「エロヒム(複数形)」で表現される神ですが、以下のような性格で描かれています。
<エル・エロヒム>
■ 神もしくは神々の最高神である。
■ 天地の創造主である。
■ 抽象的・概念的な非人格の神である。
■ 時代的には古い信仰である。
■ イスラエル北部でもともとは信仰された。
一方、われらがエホバは、以下のような性格です。
<エホバ>
■ 雷や火山などのように実態エネルギーを下界にぶつけてくる。
■ とにかく自分だけを信仰しないと怒る。
■ 異教を信じる者を滅ぼしつくそうとする。
■ 嫉妬深い。ねちこい。
■ イスラエル南部で信仰され、司祭階級が崇拝を担った。
なーんとなく、みなさんの知っているエホバはこれこれ!ですよね?!
そうなのです!前回、創造主A神と、ヘブライ人の神エホバB神は別人だと説明しましたが、聖書の中ですら、ちゃんと描き分けられているのがこの2人の神の特徴だったのです。
さて、エホバの証人は、「エル・エロヒムの証人」ではないので、基本的に異教の者を排除するし、「ねたむ神、そねむ神」の機嫌を損ねないように教義が設定されています。
私がもし「エル・エロヒムの証人」を立ち上げるなら、
「世界の全ての人類は、創造主の被造物なんだから、仲良くしましょう」
とだけ伝道するのですが、いかがでしょうか?(笑)
☆ちなみに、聖書以外で古代の文書に書かれている「エル」という神は、創造主で父なる神ではあるものの、牛の姿をしていて、女好きで大酒飲みだそうなので、エルの証人もやめといたほうがよさそうです(笑)
<参考>
http://www.efendi.jp/rq/script/cults/canaanite/deities/el.html
==========
さて、では肝心なお話をつづけましょう。
そもそもどうして神々の記述が合体したり融合したりしていったのでしょうか?
それはヘブライ人たちの悲しい歴史に関係があります。
わたしたち日本人にはけして理解できないことかもしれませんが、ヘブライ人は物心ついた時から、「自分たちの土地ではない、よその土地」で暮らす羽目になっていました。
モーセの話でわかるとおり、
「いつの間にかエジプトで奴隷になってた」
とか、そういうことの繰り返しで、現在も「イスラエルという国ができるまでは散り散りバラバラ」なのがヘブライ人(ユダヤ人)の歴史だったのです。
そのため、ヘブライ人たちは、「自分たちの神に対しての信仰」も持っていましたが、砂漠を移動し、転居する間において
「それぞれの場所での神々の性格も取り込んでいった」
のだと考えられています。
なので、聖書の中には、「ヘブライ人の歴史や伝説」も書いてあるけれど、「異教徒の歴史や伝説」もごっちゃになって混じっているのが真実だったりするのです。
当然、神の姿も、多くの神の性格が混じりながら成立することになったのです。
それはそうだとしても、ひとつだけわからないことがあります。
「それにしても一体なぜ、聖書では繰り返しエホバに従うべきことが説かれているのか?」
ということです。
「聖書の神自体が、多くの神の姿を取り込んでごっちゃになっているのに、なぜわざわざ唯一絶対神にだけ従わなくてはいけない、ということを主張しているのか」
が、矛盾しているように思うことでしょう。
そこには、大きな理由がありました。
(つづく)
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
【エホバの証人を辞めたあなたのために 2】 ”エホバ”という呼称が指し示す真実 ~聖書の神は、多神教であった~
聖書学者の間では、すで言い尽くされた感のあるこの話ですが、エホバの証人を辞めたばかりのあなたは、おそらくあまり知らないことだと思うので、今回は
聖書の神は多神教である
という衝撃の事実からお話を進めたいと思います。
エホバの証人をはじめとして、特にプロテスタント以降のクリスチャンは、「唯一絶対神にして、宇宙の創造主」としてのいわゆるエホバ像を常に思い描きます。
ところが、聖書には、そんなことは一言も書いていない、ということを知ったら、あなたは驚くことでしょう。
聖書に書いてあるのは、「とある神が天地を創造した」という話と、「とある神が、自分だけを信仰しろと言った」という話で、クリスチャンの99.9%はその「とある神」が同一人物だと考えています。
これは、実は完全な誤解で、「そういう誤解をするように、聖書の著者がうまく二つの話をくっつけた」と知ったら、あなたは今回も叫びだしそうになるのをこらえなくてはいけません。
さて、その説明をする前に、ともかく旧約聖書には、「エホバ」という神のほかに「バアル」という神がいて、「エホバを崇拝する氏族」と「バアルを崇拝する氏族」がやたら争ったり戦ったりするシーンが登場することをよくご存知だと思います。
当然、聖書は「エホバ」側で書かれていますので、偽の神である「バアル」を崇拝する氏族は、いつもエホバ側の氏族に滅ぼされることになります。
なので、これまた聖書を読む私たちは「エホバが真実の神で、バアルが偽者だから、エホバが勝つんだな」と思ってしまうのですが、これも、
ことばのあや、という誤解
なのです。
これは一体、どういうトリックなのか。気になる人はもう一度聖書をじっくりと読んでほしいと思います。
実は、聖書の中では、神と神々について、以下のような状況が描かれているのです。
① ヘブライ人が信仰しているいわゆる「エホバ」という神がいる。
② カナン人が信仰している「バアル」という神がいる。
③ その他、エジプト人やいろんな氏族が信仰している「たくさんの異教の神々」がいる。
④ そして、その中で一番強くてえらいのが、「エホバ」だと聖書は主張している。
この言葉のあや、がわかるでしょうか?
つまり、聖書の中には、徹頭徹尾「神は唯一絶対神しかいない」ということを説いているのではなく、「神はたくさんいるけれど、エホバが一番強い」と書いてあるだけなのです。
ですので、現代人や、解釈のバイアスがかかった人間から見ると、
「エホバが唯一の神で、エホバだけが真の神である」
と思い込んでしまいますが、古代ヘブライ人は、そんなことは言っておらず、
「エホバが最強の神で、エホバが順位序列で言えば一番だ」
とずっと最初から最後まで言っているのです。
==========
ということは、聖書の著者は、「エホバが唯一神」だと書いているのではなく、「俺の信仰する神が一番で、その証拠がこれこれだ」と書いているに過ぎないわけです。
そして、このことが、創造主とエホバの関係においても、「おなじトリック」や「おなじ誤解」へと繋がるヒントになるのです。
創世記においては、「神が天地や人を作った」ということになっています。
そして、アダムとエバの子供たちが子孫を増やし、ついでに言えば「ノアの箱舟」の時にノアの一族しか生き残りませんから、ノアの子孫が現世人類の共通の祖先だ、ということになろうかと思います。
さてここで。
そのノアの子孫がすべての人類共通の祖先だとするのは良いのですが、そのうち
ノアの子孫のアブラハムの一族だけが、真の神のエホバを崇拝している
という構図になっていることを思い起こしましょう。
ということは、ノアの子孫のうちアブラハム以外の子孫は、「他の神を崇拝している」ということになります。
(なので、カナン人やエジプト人はヘブライ人の目の敵にされるわけです)
さてここで、思い出してみましょう。
カナン人がバアルを信仰していて、自分たちの神が正しいと思っている。
エジプト人が、彼らの神を信仰していて、自分たちの神が正しいと思っている。
彼らから見ると、創造主はバアルであったり、エジプトの神であったりしてもかまいませんよね?
これと全くおなじことが聖書の中にそのまま記載されていることを知ったら、あなたはまたまた叫び出したくなることでしょう。
==========
とっても簡単に言えば、こういうことです。
聖書はいくつかの文書をつなぎ合わせたものだと考えられていますが、あなたのよく知っている新世界訳の聖書において
「神と書いてある部分は、創造主であるA神の記述」
「エホバと書いてある部分は、ヘブライ人の信仰神であるB神の記述」
と分類できるのを知っておくのは、悪いことではありません。
つまり、カナン人がもし聖書を読むと、バアル=A神なのです。
エジプト人の信仰から見れば、エジプトの神=A神でもあるわけです。
そして、ここからが大事な事柄ですが、
「エホバは基本的には、ヘブライ人・ユダヤ人だけのための神であり、約束の地を与えると契約したのは、ヘブライ人相手だけなので、日本人であるあなたは、エホバが救う対象にはそもそも入っていない」
ということが、
びっくり仰天
の事実なのです。
ということは、あなたやわたしは
「創造主であるA神を信仰するつもりがあれば、まだ救いはあるかもしれないが、それ以外の神は土着のそれぞれの氏族の神なので、別にどうでもいい」
ということになるのです。
なんだかすごいことになってきたと思いませんか?!
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
【エホバの証人を辞めたあなたのために 1】 あなたは聖書を本当に読んだことがありますか?
とても興味深いことですが、現在エホバの証人として活動しておられる方々の大半は、
まともに聖書を読んだことがない
ということを指摘したら、みなさんは怒り出すでしょうか?(^^;
「いや、私はちゃんと聖書を読んで研究した!」
と否定したり、
「そもそもエホバの証人は、聖書をちゃんと研究する人たちの集まりであったはずだ」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
しかし、おそらくこのブログを今読んでおられる方の大半は、聖書を隅から隅まで通読なさったことがない方ばかりでしょうし、仮に、聖書を最初から最後まで読んだことがある方でも、
「読んでいる途中に感じたり、思った疑問を無かったことにしている」
人たちがほとんどだと思います。
そう、それは眼が節穴であったり、あるいはただ盲目的に読んでいるだけで、
そこに本当は何が書いてあるのか
について、心の底から渇望し、漁るように読んだ人は、皆無であることでしょう。
なぜ、こんなことが言えるかというと、聖書をきちんと最初から最後まで読んでいると、
「いくつもいくつも、普通に考えていては理解できない矛盾点や、話の相違、また、あまりにも不可思議な状況が立て続けに登場する」
からです。
そうです。現在残っている聖書に書かれている内容は、一貫性がなかったり、現代人から見ると不思議な内容がたくさん書かれているのです。
たとえば、
「アダムとエバの子供たちは、近親相姦して増えていったのか?」
とか
「エホバは異教徒の妻子、幼子に至るまで殺しつくせと命令している。(その人たちもエホバの被造物であるはずなのに)」
とか
「おなじ話が何度も出てくる」
とか、数え挙げればきりがないくらいおかしな記述が含まれていることは、有名です。
こうした「謎」な現象が起きていることについて、エホバの証人は以下のように説明することが多いと思います。
【エホバの証人の見解】
聖書は神の霊感によって人が書いたものであるが、その内容は比喩や、本来は異なる意味での記述が多いために、文章そのままに読み解くことは間違っている。
なので、きちんとした聖書研究のもとで読んでいかなければ、間違った理解をしてしまう、というわけです。
・・・ああ、なるほど。たしかにそうかもしれませんね。
では、ここで、せっかくエホバの証人を離れたあなたのために、他のキリスト教ではどのように考えているか、ご紹介しておきたいと思います。
【カトリックの見解】
聖書は、ふつうの人間に理解できないことが書いてあるので、聖職者以外は読んではいけない。
なんということでしょう!
カトリックでは、そもそも、ふつうの信者は聖書を読まないのです。カトリックにおいては、神の次に教会や聖職者が権威を持っていますので、聖書そのものではなく、「教え」に重点がおかれるために、聖書を読ませない、というわけです。
そんなカトリックの教えに反発し、「聖書に立ち戻ろう」という運動を推し進めたのが「プロテスタント」系のキリスト教ですから、プロテスタントではもちろん聖書を読んでかまいません。
しかし、その理解は、当然エホバの証人と同じく、「正しい解釈」が重要視されるわけです。
でも、「正しい解釈」とは、いったい誰が決めた解釈なのでしょう。
ところで、せっかくエホバの証人を離れたあなたですから、いわゆる「世の人」たちがどのように聖書を見ているかを知っておいてもよいかと思います。
【歴史学者の見解】
聖書は、中東地方の人たちが特定の神を信仰して、それに関連する記述を長い時代をかけて執筆したり転記したりしているため、おなじ話がかぶったり、原始的な宗教の特徴も記載されている。
まず、理解してほしいのは、上のような見方です。
聖書は、人が書いたものです。そして、その内容は、書いた人物の思想や、「こうあってほしいという理想」や「こうしたいという意図」が書かれたものであるということです。
ということは、聖書にまつわる真実は、以下のようなことだと気づきます。
「近親相姦を認めていたのは、神ではなく、それを書いていた当時の執筆者が認めていたのだ」
「異教徒を殺しつくしてよいと考えたのは、神ではなく、それを書いていた執筆者の考えだ」
「おなじ話が二度出てくるのは、『別の人物が書いた』か、そのことを書いた原本が2冊以上あったということだ」
・・・これが聖書を読む上での、基本だということになるのがわかるでしょうか?
このことを思い浮かべると、あなたは軽いショックを覚えるはずです。
なぜなら、聖書に書かれていることを「解釈」ではなく、
当時の執筆者の創作
だと認めると、
「そもそも、エホバという創造主が空想の産物かもしれない!」
と思わずにいられないからです。
さて、ここからあなたと深い話、長い話をつづけていかなくてはいけないのですが、聖書に書かれているエホバ像が、古代中東の宗教者が書いた創作だったとしたら、あなたはいろんな思いにとらわれて叫びはじめることでしょう。
もちろん、その叫びに、私も心から同意します!
「ああ!聖書にかかれたエホバが真の神ではないかもしれないが、この世界を作った創造主と呼べる神のような何らかの存在はいるのではないか?!」
「そうじゃないと、わたしたちがなぜこの世界にいるのか、説明がつかない!」
と。
あなたの驚きや、そこから発せられる叫び。それは私も同意します。たしかに、理屈で考えるとそういうことになるのです!
あなたが一旦、聖書に書かれた創造主を信じてしまった以上、その謎を解かない限り、心からの納得は得られない!
そのことは、私も心からそう思うのです!
・・・さて、「長い話になる」とあらかじめ書いたとおり、ここからこのブログでは、この疑問と謎を解決するべく、あなたと一緒にこの世界について考えてゆくことにしましょう。
そして、そのためには、今日たった今、軽く全否定してみた「聖書」の世界を、もう一度柱の陰からのぞきこんでみようと思います。
もう一度、聖書に立ち返ること。
そうすると、今まで見えてこなかった真実と、先ほどの「叫び」への答えが、ちゃんと見えてくるのです。
ぜひ、このツアーに、あなたも参加してください。
(次の記事へつづく)
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
【エホバの証人を辞めたあなたのために】 ~はじめに~
<はじめに>
このブログのシリーズは、かつてエホバの証人という宗教に所属し、その会衆で活動していた経験がある私が、
「エホバの証人を辞めた」
もしくは
「エホバの証人を辞めようと思っている」
あなたにとって、小さな支えとなるべき事柄を書き連ねたものです。
ネットの記事やリアルな書物として、「エホバの証人を辞めた体験」が書かれたものは数多くありますが、その多くは、
会衆や組織の論理に対する疑義や批判、あるいは著者の体験をまとめたもの
が主だと思いますが、このブログでは少し趣が異なります。
エホバの証人を辞めた人は、まず「組織や会衆」の問題点を思い浮かべることで、それを「否定して」、現在の自分を肯定しようとする方が多いように思います。
ですが、「組織や会衆」をいくら批判し、否定したところで、肝心な「あること」が全く解決しないまま信仰を離れるものですから、そうした方の多くは、
心の中に、大きな空洞
を持ったままになるのです。
それは、とても単純かつ、重大なことです。
組織や会衆が仮に間違っていたとして、
創造主は、本当に存在するのではないか?
あるいは
創造主は、あなたやわたしをずっと見ているのではないか?
という問題。それはいっこうに解決されずに、あなたの心の中に残り続けるのです。
そのため、エホバの証人を辞めた方の中には、
「別のキリスト教へ信仰を求め」
たり、あるいは、
「別のスピリチュアルな何かを捜し求め」
たりしながら、いつまでも充たされず彷徨いつづける人も多いように見受けられます。
このブログでは、そうした迷いや悩みを抱えるあなたの心をすっきりクリアにすることをお約束します。
あなたは、心の底から自由になることができるのです。
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
登録:
投稿 (Atom)