2018年11月6日火曜日
外国での奉仕活動における悲しい出来事について
グアテマラに奉仕活動に行っていた若い姉妹が強盗被害に遭い、1人は亡くなられたというニュースを聞き、心を痛めているところです。
亡くなられた方、そして被害に遭われた方には、心より哀悼の気持ちを持っています。
しかし、この事件については、ツイッターなどでみなさんの意見を読んでいると、いろいろな受け止め方があるように思います。
客観的には、この「受け止め方」によって、エホバの証人を辞めた方のそれぞれの現在の状況や、あるいはその傾向、性格、思考パターンなどがにじみ出てくるものとなっていることに気付かされます。
ツイートなさっている方は、そこまで自分の傾向について感じていないかもしれませんが、少し自分を客観視することで、エホバの証人から離れた後の世界観の構築に役立つ場合があるかもしれません。
なお、これから書くことは、特定の個人の考え方について、批評批判するものではありません。全体の傾向、おおきな受け止め方の類型としてお話します。
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■ 事件を知って、「自分もそうなったであろう」と感じる人
私も海外ではありませんが、国内でいわゆる「必要とされる場所」へ移動しての伝道活動に従事したことがあります。
元エホバの証人のみなさまにおいても、海外で活動した経験がある方も、少なくはないようです。
こうした人たちは、ふだんの日常生活から離れて、ある意味、信仰や教義において、「そこへ行き、活動する」という覚悟を一度は持った方でしょうから、「それが結果的に妄信に過ぎなかった」かどうかは別にして、宗教の論理については一定の理解と共感を有していると考えます。
この時に「自分もおなじ事態に遭遇したであろう」と想像することはごく自然なことだと思います。
ところが、現在こうした人たちは「もはやエホバの証人ではない」わけですから、海外などでの伝道活動に行ってしまう気持ちも理解しながら、今から振り返ってみると「それは恐ろしいことだったのだな」という気付きも得ていることになります。
この「理解できる気持ち、あるいは自主的に行ってしまう気持ち」と「それがいろいろと問題や危険を内包する行為だったと振り返る気持ち」の2つが同時にやってくるわけですから、一言で説明できないような「複雑な心境」になる、ということかもしれません。
私は、こうした視点は重要だと考えています。この2つが合い反する感情の中で、こちらのセカイでどのように生きていくかを自問してゆくことや、あるいは2つの立場を客観視してゆくこと、相対化してゆくことは、新しい人生を送るカギとなると考えます。
■ 「そんなところに送るのは、組織にも責任がある」と考える人
危険な地域や、困難な地域での奉仕活動を行うのは、自己責任でしょうか。それとも、そうしたところでの活動を推奨する組織の責任でしょうか。
答えは、「どちらにも責任がある」ということだと思います。
そのため、当然ながら組織にも責任があります。そして、行った人にもそれ相応の責任と覚悟が必要なことでしょう。
オウム真理教の事件で、教祖と信者はテロ行為を行いました。かの事件では当然、教祖にも責任があるし、実行犯にも責任があります。そしてその通りにどちらも刑死という形で責任を取らされました。
ですので、どちらにも責任がある、ということそのものは事実であり、まったくもってその通りですが、もし、それを発言する人の心の中に
「だまされて行っているのだから、本来は組織がとても悪いはずだ」
「組織はそうならないように注意すべきだ」
「どうしてこの件について組織はコメントをしないのか」
といったことが思い浮かぶのであれば、少しだけ注意が必要な状態にある、と気をつけたほうがいいかもしれません。
なぜ、そんなことをお話するのかといえば、次の例を考えてみましょう。
「オレオレ詐欺グループがいて、その組織の上部から、末端の受け子に向かって『さあ、老人からお金をとってこい』という命令が発せられ、その通りに受け子が実行した」
とします。当然のことながら、組織の上部も受け子も、犯罪者です。どちらにも責任があります。
さて、この時
「受け子はだまされているので、本来は組織が悪いはずだ」
「組織はそんな悪事をさせないようにするべきだ」
「組織は受け子が捕まったことに対してコメントをするべきだ」
と考えるならば、少し、というか、かなり変な考え方をしていると気付くことになります。
エホバの証人の組織と、悪の組織と、構造は同じです。つまり、エホバの証人はもともと一般常識や責任を取るといった事柄とは
「かけ離れた・逸脱した」
行為を行っている(それが信仰というもの)なのですから、逸脱している人に向かって「責任を感じないのか!感じるべきだ」というのは、それを主張することは、無駄ではないにしろ
たぶん、それ自体は無意味
であろう、ということなのです。そもそも組織とは、無責任な存在なのですから。
そうではなくて、一般の人たちからみれば「組織も当然怖い」ことは普通ながら、「実際にそこへ行ってしまう末端の信者も怖いしヤバい」と感じるのが当然なのです。
つまり、最初に戻りますが、どちらも同罪です。
ですから、もしこの件について、組織の責任についてとても気になる人がいるとしたら、その人には
「自分(側)の責任として自覚する気持ちが弱いか、他者に責任を持ってもらいたいという依存傾向がある」
ということに注意なさるとよいと思います。
あるいは
「エホバの証人の組織がまともであってほしい」
「まともな組織になってほしい」
という願望がどこかに隠れているのかもしれません。
☆ もし「伝道活動は悪いことではない、悪事を行っているわけではないので、伝道者は悪ではない」という思考パターンの人がいるとすれば、その方はまだ洗脳が残っている可能性があります。
「伝道活動は、組織と一緒に行っている悪事である」
という視点を一度持って、捉えなおすと違う考え方が生まれるかもしれません。
■ 殉教は、ある意味幸せだったのではないか、と感じる人
自分が自分で物事を決定し、自らの信念によってそれに添って生きてゆき、その結果として残念ながら非業の死を遂げた、ということは
「自分の信じるものに一生を捧げた」
ということになり、それはそれでひとつの幸せの形だという考え方です。
今回、私達は宗教について考えているので、どうしても意見がひねくれてしまいますが、
「芸術に一生を捧げて、芸術の途上で非業の死を遂げた」
とか
「作家が文学に苦悩に苦悩し、あるいは自殺した」
とか、そういう事態であれば「それはその人の生き方として、仕方がなかったのではないか」と感じる部分もあると思います。
なので、こうした視点で物事を捉える人は、基本的には「相手の立場を重んじる」タイプであると思います。
となると、同時にこうした人は「彼の世界は彼の世界」「わたしの世界はわたしの世界」であると、なってしまうので互いに干渉しません。
干渉しないわけですから、こうした考えの人たちとは、議論論争には、基本的にはなりにくいと言えるでしょう。
ただ、今回の問題については、「そもそもその信じるところが事実として正しいことに基づいているかどうか」については、ひっかかりを誰もが覚えるところです。
『そもそもエホバの証人の教えが正しいのであれば、それはそれで幸せなのかもしれないが、教えが間違っていたのなら、無駄死にになってしまう』
という意見があるということですね。
しかし、これまた踏み込めない領域があることも事実です。
「何が正しいか、何が間違っているかを判断することは、他人ではなく自分にこそある」
ということもまた事実だからです。
わたしたちは、自分の親しい人にできるだけ真実に基づいて何かを判断したり、信じてほしいと願っており、そのために行動することはいくらでもできますが、最終的に何かを決めるのは
「その人」
にしかできないことです。
自分の生き方は、自分しか決められない
これは人類普遍の真理かもしれません。
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この事件については、多くの人が、痛ましい出来事ゆえに
「そのままのストレートな感情」
をコメントとして表出しています。だからこそ意見の違いがはっきり現れます。
あるコメントがよくて、あるコメントが悪いといった問題ではまったくありません。
自分と異なる受け止め方をしている人がいれば、そうした意見を見聞きしながら、自分の生き方について考えるヒントとできればよいのではないかな、と感じます。
2018年10月11日木曜日
エホバの証人を辞めてからの生活再建について ~ 2世信者を中心に ~
私自身は、エホバの証人を中学生時代に辞めているので、現在40代半ばの人生においては、かつての経験や記憶が自分自身を苦しめることは
全くない
のですが、ツイッターなどで多くの「エホバの証人を辞めた方」や「元2世」の方の心情などを伺っていると、まだまだ心にいろいろなモヤモヤを抱えている方が多いように感じます。
そうした方の「生活再建」はどうしたらいいのか、ということを近年は常に考えているのですが、それは、私がJWの呪縛から脱した先達として、なにがしかのおみやげを残せたらよいなあと考えているからです。
さて、最近宗教2世が自立する優先順位として以下のような内容を挙げました。
① 経済的自立 職業と住居の確立
② メンタルの安定
③ 教義に対する自分なりの反証や否定
④ 親への意思表明や反論・説得
この内容をお話した時には、
順番を間違うとうまくいかないよ
という意味でツイッターなどには書いたのですが、特に2世信者の場合は日常の多くが
親との軋轢
に終始してしまう恐れがあるため、特に④などを先に持ってくると大変なことになるのが目に見えているというわけです。
理想的な宗教との離れ方としては
「就職や進学などで自立・1人暮らしができるチャンスを見計らって物理的に離れる」
「できれば経済的に自活できるとなおよい」
「結婚して配偶者とともに生活をはじめるのも可」
が、第一段階だと思います。
次に「メンタル」の安定を取り戻す方法ですが、大事なポイントとしては
「今、現実問題として自分が何に不安を感じているのか」
「自分をとりまく何が問題や課題なのか」
を明確にして言語化できるほうがいいです。
これが漠然とした「生に対する不安感」のようなものだけでは、援助者や何かの制度などを利用するにしても、どうサポートすればいいのか不明瞭になってしまう場合があるでしょう。
「何か人間関係を中心としたものなのか」
「教義とリンクする罪悪感などなのか」
などを、少しでもいいので具体化するとよいでしょう。
その上で、それぞれの宗教に対する教義へ反論することはいくらでもできるでしょうし、ネットなどにはその材料や証拠となる証言や事実もたくさん転がっています。
この部分は一度理解が進むと、どんどん「宗教の教義」の矛盾が溢れてくることと思います。
最終的に、親とどう向き合うのかは、家庭の事情や状況によっても異なります。自分の心身の安定を手に入れた上で
「もはやあえて向き合わない」
という選択をすることも可能なのですから。
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宗教に囚われてしまう根本原因として、最近気付いたのは
「無教養が、宗教に陥れられてしまうひとつの原因」
だということです。
たとえばオウム真理教などのように高学歴でもカルトに入ってしまう人たちはたくさんいますが、彼らは
「知識や学歴はたくさん有していても教養がなかったのではないか」
ということができるでしょう。
知識や学歴は、情報の量や質の単純な積み重ねです。
しかし教養は、情報同士がシナプスのようにネットワーク化されて、自由自在に繋がることを意味します。
教養があると「あれ?これはこの問題と似ているな」とか「これとこれが矛盾するのでは?」という「おかしな点」にいち早く気付くようになります。
このセカイでおきていることと、どこかの宗教が言っている内容が本当に合致するかどうかは、教養によって
検証することができる
というわけなのです。
もちろん宗教2世は、不幸なことに「無教養になるように育てられる」ことが多いです。
情報の量や質も制限され、それが他の事象とどのように関わるかを考えることすら「止められて」しまうことでしょう。
こうした状態になった人たちを「教養」の世界に引き戻すには、たいへん時間とコストがかかります。
それは、いわゆる一斉授業のような知識伝達ではなくて
「その人の見えている世界と、事実や知識との間に関係性を生じさせてゆくような伝達」
が必要になるからです。
簡単に言えば、ソクラテスがやったような「対話的な・質問的な手法」が必要になるかもしれません。
エホバの証人のたとえでいえば、
「個人研究してしまった分の時間だけ、逆の個人的対話」
が必要になるのかもしれない、ということです。
私は元高校教員ですので、教育に関してはプロですが、こうした問題に関しては、とても複雑で簡単ではないと覚悟しながらこれを書いています。
2018年9月15日土曜日
エホバの証人の不可思議な信仰スタイル ~その善、その正義、に幅がある理由~
このブログは、主にエホバの証人を辞めた人、もしくは「辞めよう」と思っている人が多く訪れるブログだと意識していますが、仮にあなたがエホバの証人を辞めた元信者さんだったとしたら、覚えておいてほしいことが一つあります。
それは
この世界は、
「神を信じるか」
「人を信じるか」
「自分を信じるか」
の3通りの生き方しかないのだ、ということです。
欧米社会の多くの人たちにとっては「神を信じる生き方」というのはデファクトスタンダードです。科学技術が発展した現在であっても、自分の生き方の芯に神を置いている、という人たちはたくさんいます。
イスラム圏の人たちなどまさにそうで、「神を信じる生き方」に背くことはありません。(ただし、それをどのように表現するかでテロが起きたりするわけです)
また、資本主義と共産主義、あるいは封建主義やリベラリズムなどのいわゆる「主義」と称するものは、
「神なき世界にあって、人はどのように生きることが善で義なのか」
を追求するものです。これらの生き方は「人は最終的にはよくあろうとする、もしくは、人は良くあらねばならない」という人類の英知を大きく信じるところから始まっています。
そして、それらに失望したものは、最終的には「自分はどう生きるか」ということを問わざるを得ません。頼むことができるのは、もはや自分自身のみ、ということです。
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エホバ、という神に背いた私やあなたは、もはや「人を信じるか」「自分を信じるか」の2通りの行き方しかないわけです。
私は、基本的には「自分を信じる」という生き方を貫いていますが、 「人を信じる心」も持ち合わせているので、こうして不特定多数の誰かにもお話を書いています。
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さて今日のお話は、ここから少し発展して、エホバの証人の奇妙な教義について考えてみましょう。
私は、彼らの説くひとつひとつの協議や励行事項、禁止事項を取り上げてそれをどうこういうつもりは全くありません。
そこではなく、
「いわゆる教祖がいないので、これが善でこれが悪であるという絶対的線引きがなく、ブレる」
というところや、
「具体的なように見えて、実は抽象的な戒律によって、誰もその真実を知らない」
というところに注目したいのです。
最初の話である「神を信じる」スタイルの宗教であれば、たとえば天理教の中山みきさんのように、
「神とされるものからヨリシロを通して直接ことばが伝えられる」
ということがあります。
幸福の科学の大川隆法さんも、そのスタイルです。いろんな神や聖人が、彼に降臨してその口から話す、ということになっています。
「人を信じる」スタイルの宗教は、鎌倉仏教などではこの手法が際立っていました。神仏を信仰するのだけれど神仏そのものは何も言わず
「念仏が絶対なんだ」
とか
「お題目こそすべてだ」
とか
「宗教者の独自のスタンスや教えに従ってゆく」
スタイルがあるわけです。
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さて、エホバの証人の場合は、「聖書に書いてあること」を主としながらも、実はその実行においてはかなりブレがあります。
血を避けることに関してはかなりナーバス(神経質)ですが、ヒヅメがある動物やない動物の禁忌については無頓着です。
(このあたりはハラールを厳格に守るイスラム教徒や律法を守るユダヤ教徒のほうが真摯です)
妻は夫に従うことと、世の人である夫をさげすむこととどちらが順位として上か、実は決まっていません。
なので、あるときには「夫には従順であれ」というし、「悪魔には従うな」ともいいます。
日々の信仰と、それにともなう生活の上では、こうしたちょっとした矛盾はたくさん出てくるので、現役の信者においても、こうした問題は少しずつ積み重なってゆきます。
思春期の男女であれば、性について関心を持つこともあるでしょうが、聖書にはオナニーするとアウト!と書いてあるのに、オナニーの翌日に奉仕活動だっていけちゃうわけです。
統治体のメンバーであったレイモンド・フランズの告白本「良心の危機」は、究極的にはこうした矛盾をついたものでした。
この書物の中には、
「A国で迫害をうけていた会衆の仲間は、うそ偽り無く信仰を全うして弾圧を受けていた」
のに対して
「B国での会衆の仲間は、信仰を偽装して当局の弾圧を逃れていた」
ことがあり、それが両方統治体にどうすればいいか問い合わせが挙がってきているのに、統治体は
「答えを出さず無関心であった」
ことから、彼の信仰はゆらぎはじめたといいます。
エホバの証人の教義は、おそらくすべてが万事この調子で、
「神は明確な答えを出さない」
し
「人である統治体も明確な答えを出さない」
のです。
「そこはほれ、自分たちの心で考えて、行動しなさい。神がみています」
と言うのみだったりします。
つまり、信者は、聖書の内容と会衆の雰囲気と、与えられる出版物から
「忖度して生きてゆけ」
ということになるのです。
これはある意味、ものすごく無責任な話で、行動する信者ひとりひとりですら、その行動の原理、理由を明確に責任をもてない、という意味ですごいことです。
そのため、会衆の構成員には、いろいろな人が生じます。
A■ 世の人である夫にも従順で、真摯に聖書の教義について守ろうとする姉妹
B■ 世の人である夫をサタンだと陰口をたたきながら、「わたしは奉仕を頑張っている」とうそぶく姉妹
A■ 親子そろってエホバの信仰を守りながら従おうとしている長老家族
B■ なんで親はこんなに変なのかと思いながら友達もできず学校にもいきたくない長老の子
おなじ信仰を抱いているはずなのに、メンバーの実態がこんな不思議な分かれ方をする宗教も珍しいのではないでしょうか。
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こうしたことから、特に冷静に事態を見つめている2世からの視点では
A「エホバの証人は基本的にはいい人が多かったよ」
という温かいまなざしをもつ者と
B「エホバの証人は全員クソ野郎ばかりだった」
という恨みと呪いにも似た感情を抱く者に分かれます。
このAジャンルの人たちとBジャンルの人たちは、なかなか分かり合うのが難しいかもしれません。
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すべての根源は、
「神が、そして人が、『これが善でこれが悪である』ということを首尾一貫して矛盾無く語ろうとしない
ことにあります。
神が明確に語ってくれるなら、これは簡単なことで、表面だけとりつくろって奉仕にいそしむ嘘つき姉妹は塩の柱になっていることでしょう。
毎週毎週、王国会館で塩の柱が増えてゆくのであれば、わたしたちはガクブルで、大真面目に神に忠誠を誓うことでしょう。
瞬間でもよこしまなことを考えたら、命はないのですから。
あるいは教祖がいる宗教のように、
「おまえには災いが起こるだろう!」
とバチッと言ってくれてもいいのです。それはそれで、信仰を強固なものにする基盤として生きてきます。
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しかし、あいかわらず神は何も言わず、会衆も実はむにゃむにゃしているだけなのです。
だったら、最初の話に戻りますが。残りは「自分を信じるしかない」のではありませんか?
そういう意味では、私は「エホバの証人」という組織から離れて
「自分と神と1対1で直接対話をする」
というのはアリだと思っています。
あなたと神との個人的な関係から、あなたがどう生きるべきかを再構築すれば、少なくともあなたの人生の責任を果たすことはできるでしょう。
(なので、エホバの証人を辞めようと思っている人に「エホバを捨てろ」ということは私は言いません。
神とは何か、どういう存在かを最初から問い直してみれば?とお勧めするのです)
ラベル:
エホバの証人とその2世,
エホバの証人の教義
2018年9月12日水曜日
宗教1世と宗教2世が見ている光景の違い ~毒親にもあてはまるかも~
ツイッターというSNSは便利ではあるものの、タイムラインに従ってそのネタは流れていってしまうために、長期に渡っての考察を深めるにはあまり向いていないという側面があります。
そのため、ある程度まとまった内容についてのお話は、ブログに記録として残して置くようにしようと思っているのですが、まあうまく行かないときもあります。
さて、今回は、先日ツイッター上で反響が大きかった話をまとめてみます。ツイートをご覧になった方については既出でしょう。
ちなみに、私のツイートは
https://twitter.com/mukogawa_sanpo
に転がっています。
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『宗教1世と宗教2世とでは見えている世界が全然ちがうということがわかった。
1世は「なぜこの世界がこうなのか」を問いかけ、救いを教義に求めていて、 2世は「なぜうちの親はこうなのか」に絶望して救いがない ということらしい。』
『毒親問題もそうだが、親も子も完璧ではなく弱かったり、誤ったりする中で、家族という枠組み以外に子供を支えるシステムができないもんかと思う。
家族枠に全ての完全なる庇護を求めるのは無理ではないのか? 大家族制度のほうがマシか?』
『そうか。 エホバの証人2世は 簡単に言えば 愛着障害 を起こしているのね。』
『かなり反響があって驚いているツイートだが、ぶっちゃけて言えば「なぜうちの親はこうなのか」という答えは、信仰によって強化されちゃったから、なので、元に戻すのは容易ではないし、本人たちは望んでそうなっているのだ。 だとすれば、2世にできるのは「親から離れること」しかない。』
『よく考えると、JW2世がJW1世と精神的に戦っているとして、2世は「親の無償の愛が欲しいんだぜ!」と願っていても、1世は「神の無償の愛をもらってるぜ!」と思ってるんだから、勝てるわけないわな。 むこうは満足していて、こっちは不満足なんだから、この戦いは不利だ。』
『きっと1世である親自身が「愛してほしいぜ!」とか「受け止めてほしいぜ!」と思っていたから宗教に依存するわけで、やってることは親子で同じなのかもしれない。 となると2世にできるのは「この世、この世界のすばらしさ」を実感することしかないんだけれど、それは親には頼れない。』
『この構図から導き出されるのは、1対1の関係ではすでに負けているということだと思う。 1世親は「愛してほしいぜ!」の心のスキマを宗教によって埋めちゃったわけでそれを失うのはとても怖いことなのだから。 2世はどうがんばっても勝てない。一人では。そこから抜け出すには仲間が必要。』
『すべての宗教2世の諸君。一人で戦ったら負けるぞー。あなたの家庭内のハナシとして内側に閉じた世界で生きてると、確実に死ぬぞー。 少なくとも、勝機をつかむには「外界とつながっていること」「仲間を見つけること」が最初のスタートだぞー。』
『こんなことを書くと絶望する人が続出するので救いを書いておくと、「信仰」に勝るのはいつも「事実」しかないということだ。 事実の前には、かならず信仰が揺らぐ瞬間がある。 その一瞬があなたをきっと救うだろう。』
~~~~~~~~~~
幸いなことに、私自身は親の信仰とは関係なく、勝手に王国会館へ行くのをやめたので、いわゆる1世に対する気持ちというのはとても冷静で、ただ単に「信念が違う人」というくくりでそのポジションに置いているため、感情が乱されることはまったくないのですが、
ふつうの親子関係だと、いわゆる教義や信仰に「親子の情愛を人質にされている」状態
になる家庭があることも理解できます。
2世が社会人になるまでは、経済的な側面でも、自分の衣食住まで人質に取られているから、ただ単に家を脱出する、というのも難しいでしょう。
(これは毒親家庭も同じ)
実際には、とある北の国から脱北するのとおなじくらいの難易度のミッションになるだろうとは思います。
しかし、特に日本の行政システムでは、家庭に最大の権限があるため、外部の人間が、該当2世の側に立って活動しようとしても、その権限は1世親に到底及ばないのです。
「うちの親が毒親なんです!」
という主張も、肉体的な虐待があれば一時的には避難できる行政サービスはありますが、
「心理的虐待」
や
「信仰的強要」
については、完全に「民事不介入」だし、仮にとある心ある人物が2世の脱出に手を貸すような場面があれば、誘拐として認定されることは疑いありません。
となると、最終的には、
肉体的、精神的な脱出・自立は、実質的にあなた1人で実行せねばならない
ということになります。これは残念ながら事実です。
諸事情で、私個人は、これまで弟子を2人ばかり抱えて居候させたこともありますが、それはどちらも20歳を過ぎた成人になっていたので、親とは引き離れても「個人の意思」で武庫川道場(どこやねん笑)に出家できたのです。しかし、これまた残念ながら10代の人間については、私は何もできません。
(ましてや、そういう2世の改宗サービスはありません)
うーん。この問題は根が深いので、すぐ解決とはいかないようです。
2018年7月27日金曜日
カモンベイビーアメリカ U.S.Aとエホバの証人 ~80年代のハイソ会衆の思い出と考察~
この世のものにはあまり興味がない方も多いかもしれませんが、DA PUMPの「U.S.A」という楽曲が流行していることはご存知でしょうか?
もちろん、このブログのメインテーマである「さよならエホバ」に直接は関係ないのですが、先日テレビで放映されていたこの「U.S.A」を観ながら、あるいは
カモンベイビーアメリカ!♪
と歌いながら(笑)、思い出したことがあるのです。
それは、
「ああ、80年代のエホバの証人はアメリカナイズされた、まさにカモンベイビーアメリカだったのだな」
ということです。
U.S.Aがヒットしていることは、日本人の中にかつてあったアメリカ社会への憧れと、そうした機運があったことへの郷愁が入り混じりながら、恥ずかしいような懐かしいような、そういう複雑な感情が呼び戻されることにもあるのでしょうが、この2018年になって振り返ってみると
あの頃のエホバの証人とはなんだったのか
を思い起こさずにはいられないのです。そこで、少しだけ昔話をすることにしましょう。
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私が、いや、正確には私の母が所属していた80年代の会衆は、「ハイソな人たち」の集りであったように思います。
■ 未信者の夫が公務員やそこそこ大きな企業に勤めており、専業主婦である妻が姉妹。
■ 持ち家比率は高くないが、官舎公舎あるいは団地住まい。
■ 健康志向、無農薬、いまでいうロハス的な生き方への傾倒
■ 家族や友人間に流れるリベラル感覚
■ 穏やかもしくは優等生的な子供たち(2世)
会衆の構成員にこうした人たちが多く、また会衆全体の雰囲気も、上記のようなハイソサエティ感がそこはかとなく漂っている、という感じでした。
そして、かならずしも「エホバの証人」とは関係があったり領域が重なるわけではないのですが、タッパーウエアやアムウェイ・エイボン化粧品などの「ホームパーティ商法型マルチ」に関心があったり、あるいはそうした活動に絡んでいた人もおり、
「アメリカナイズされた、リベラル型のホームパーティ商法の宗教版」
がエホバの証人だったのではないか?と思わずにはいられないほどです。
私は関西でしたので、ここに灘神戸生協のコープ活動も加えてもいいでしょう。
『コープ商品やタッパーウエアなどの先進的・健康的な生活用品があって、子供はレゴで遊んでいて、旦那はいいとこの会社員、奥様は専業主婦で奉仕活動』
というのが、この80年代ハイソエホバの典型的なスタイルです。
そもそも、信者が増えてゆく過程も、ホームパーティ型でしたから、
「うちにいいものがあるのよ!一度遊びにいらっしゃらない?」
というマルチ系のノリに似ていて、そのとっかかりが別に信仰ではなく、どこかで見つけてきた「良いもの」を教えあう中で、個人研究が始まってゆくというスタイルも多かったように思います。
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今から思えば、現代のように女性の社会進出や貢献がまだまだ進んではおらず、当時としてはいわゆる
「妻としても女性としても意識高い系だった妻たちが、一種の社会貢献・社会奉仕として伝道活動にのめりこんでゆく」
という側面があったことがわかります。コープ活動や、エイボン化粧品などの女性の活動・活躍と親和性が高かったのもそうした側面があったからでしょう。
ちなみに、私個人は、その後とある田舎に引っ越したりしたので、ハイソではないスタイルのエホバの証人も知っているのですが、仮に生活水準が高くないとしても、基本的な傾向は似ていた部分があるのかもしれません。
夫はリベラルなため、別段反対もされないし、穏やかで誠実、健康的で文化的なことが好きな人たちの集まりであったため、生活ランクはともかく、専業主婦が活動する上では、特段障害やトラブルになることは少なかった、ということはあったと思われます。
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80年代エホバの特徴は、そのアメリカ型志向にあります。
ライフスタイルそのものが、「アメリカの敬虔なよき家庭」をモチーフにしていることからもわかるように、エホバの証人とは、
「よきアメリカ人のような、文化的でかつ敬虔なる生き方」
を体現するものでした。
しかし、同時に、その思想もまた80年代アメリカですから、必要以上に「北の王」つまり共産圏とソビエトを脅威としてみなしていた言説が多かったことを思い出すことでしょう。
80年代アメリカにおけるハルマゲドンとは、一般のアメリカ人が畏怖していた米ソ冷戦による突発的な核戦争の脅威そのものでした。
エホバの証人の教義では、核戦争がハルマゲドンであるという明示はありませんでしたが、特に「北の王ことソビエトの動向を注目していれば、しるしが見えるのではないか」という思想は明確にあったように思います。
そうした意味では、特に宇宙開発でソビエトがアメリカを凌いでいた頃の「負けてはいられない」イメージからか、「高等教育を受けて、勉強して賢くなること」については、全く否定されず、むしろ推奨されていた記憶があります。
80年代、エホバの証人の海老名ベテルで印刷された新世界訳聖書のコンパクト版は、聖書としては世界一の薄さで、その技術力を誇ったものでした。
技術力や智恵は神のみわざである
というイメージが、その時代には確かにあったのです。これもまた80年代アメリカの雰囲気を伝えるものだったことでしょう。
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現役の方にはあまり伝わらないかもしれませんが、この「ハイソなエホバ」の思い出をツイッターで書いたところ、思わぬ多くの反響を頂き、驚きました。
つまり、エホバの証人の中にも、この時代やこうした会衆の雰囲気を知っている人たちと、そうではない人たちがいる、ということなのです。
ここには、残念ながら大きな差があるのかもしれません。
しかし、こうして振り返ってみると、やはりあの頃のエホバの証人の生き様は
カモンベイビーアメリカ
だったのだな、と思わずにはいられません。
2000年代になり、アメリカも変わり、日本も変わってしまいました。
そうしたことが、かつてのような古き良きエホバの証人(←語弊のある言い方ですが)を維持できなくなっている原因なのでしょうか。
すこし、残念な気持ちになることも事実です。
2018年5月19日土曜日
エホバの証人の家族が崩壊する理由 〜 それは 霊的ネグレクト が起きるからである〜
久しぶりの更新ですが、今日、エホバの証人問題についての大きな「気づき」があったので書き留めて置こうと思います。
実はここ数ヶ月で、爆発的に「twitter界隈で、元JWを公言する方が増えてきた」という実状があります。
わたしは、本当のところは30年前に脱塔しており、このはかない人生の大半を「世の人」として過ごしているため、JW関係について何か書き残したり説明しようと思いついたのは、比較的最近のことです。
それはいわば、この世界で生きている「客観的な視点」でかつてのJW界のことを冷静に書けるからこそのブログ記事であり、ツイッターでのつぶやきなのですが、今日、とある方とお話をしていて
「JWにおける家族問題は、実は”霊的ネグレクト”という現象が起きているのではないか」
ということを発見しました。
これまでエホバの証人の家族問題は、80年代ごろは
「輸血禁忌における教義・戒律問題」
として着目されたのがスタートだったと思いますが、近年では
「毒親問題」
とからめてJWの親子関係が問われるような場面もありました。
このブログでも、JW親子の問題については何度か書いていて、
■ 毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/07/blog-post_12.html
では、まさに毒親の視点でまとめたことがあります。
ほかにも、
■ ”エホバの証人”の2世女子の生き方は、2つしかない。 ~その絶望と苦悩~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html
■ なぜJW2世には救いがないのか。 ~むしろ、死にたくなる理由~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/05/jw.html
あたりでは、1世信者と2世信者の成立の違いや信仰の面から解説したこともありました。
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しかし、それらを包括したときに、エホバの証人の親子問題は
「霊的ネグレクトが起きる」
ということに尽きるのではないか、と発見したのです。
(霊的とは、エホバの証人の専門用語の一種ですが、信仰における、信仰上のネグレクト、というニュアンスが近いように思います)
というのも、エホバの証人の通常の信仰スタイルでは、彼らは基本的に「よき人、よき親」であろうとします。
つまり、毒親やヤバイ親が、こどもを虐待する、信仰を強制するのとは、多少意味合いが異なるのです。
あくまでも、親や1世、あるいは会衆の周囲の人は、本来は「よき人」であることが信仰の現れだと思っているわけです。
しかし、結果的に子供との関係が「ネグレクト」に近いものとなってしまうのは、どういうわけなのでしょうか?
ネグレクトとは、辞書では、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88
■ 養育すべきものが養育しない 怠慢や放棄
■ 与えない、放置する、学業などを取り上げる
ことを示します。
これは当然、子供たちにかなりのダメージを与え、人格を壊す大問題です。
ところが、いわゆるこの世で起きる「リアルなネグレクト」は、親に問題があったり、それこそ毒親であったり、経済的などに課題がある状況下でそうした放棄が生じるのですが、
「エホバの証人の家庭では、愛情があり、保護者が基本的には良心的であっても、
行動として霊的な面を皮切りにネグレクトが起きる」
ことに問題の根幹があるようです。つまり、良き人でありながら、悪しき人へと変貌する、その事態が起きるのがエホバの証人の家庭なのです。
その最たるもの(←これもエホバ語ですな)が排斥です。
何がしかの(教義上の)問題を起こしたことで、本来ならば愛情でつながるはずの家族が(霊的に)排除されてしまう、このシステムは、
「家族という絆を破壊する(霊的)ネグレクト」
そのものと言えるでしょう。
そして、大変遺憾なことですが、エホバの証人たちは
「霊的ネグレクトを”してはいけないことだ”と感じることができず、”霊的ネグレクト”を行うことが正しい」
と思い込んでしまうのですね。これはとんでもない事態です。
では、それが本当に正しいのか、あるいは間違っているかもしれないのか、その基準を決めるのは一体誰なのでしょう。
それは、行為の主体者である家族の構成員ではなく、会衆の長老や会衆という他人であることになります。
(おそろしいことに、教祖が決めるわけでも、協会そのものが決めるわけでもなく、あくまでも忖度された「会衆内部の人たちの合意」です)
エホバの証人システムが恐ろしいのは、「教祖が言ったからそうなんだ」という「仮にも責任者がいる」のではなく、
「自分たちが神とやらに勝手に忖度して、なんとなくイメージで決めている(統治体の解釈を含めて)」
ということです。
言い方によっては、
洗脳・マインドコントロールよりひどい!!!
と言えるでしょう。なぜなら、
「自分たちでそう自然に仕向けている」
ので、コントロールされた人たちのように
「本当に悪いのはあいつ、ではなく、自分で悪事を自ら生み出している」
からです!!!!!
これは、蛇に騙されたエバどころの話ではありません。
一刻も早く、このことに気づいてください。
そしてできることであれば、辞めJさんや、元JWさんのみなさんは、
「今、霊的ネグレクトに遭って、一人ぼっちでいる」
人を見つけたら、可能な範囲で手を差し伸べてほしいと思います。
私も、30年の時を経て、今これを書いているのは、そういうことなんじゃないか?と思っています。
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