2016年6月3日金曜日

【エホバの証人を辞めたあなたのために 6】 あなたはどうして存在しているのか?そしてあなたは誰なのか?


 エホバの証人を含む、すべてのキリスト教宗教において、その根幹となっているのは、


「どうしてこの世界が存在しているのか」


ということへの回答に他なりません。


 それを聖書に拠り所を求めてゆくならば、


「神がこの世界を創造し、造り上げたから」


ということになるでしょう。



 たしかに、私たちが住むこの地球や宇宙全体を考えたときに、「何者かによって、この世界が作られた」ということは大変に理解しやすい考え方です。



 しかし、これまでの5回の記事で見てきたように、その創造主がどうやら「聖書に書かれている神や、エホバではないらしい」ということを一旦受け止めたとすれば、私たちは創造主について、どのように考えればいいのでしょうか?





 その点に関する私の答えは明白です。



 「創造主は存在する、そう思っていてよい」


と断言します。




 これで、特にキリスト教的信仰を持っていたあなたは、一旦心のもやもやが腑に落ちることでしょう。


 あなたが確かに信じた、「創造主は存在する」という視点は、捨てる必要もないし、否定する必要もないのですから。





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 実は、世界の多くの宗教において「創造主に相当するものが存在する」神話はたくさんあります。

 みなさんが日本人であれば、日本という国を作った「イザナギやイザナミ」といった神様がいたらしい話は、聞いたことくらいはあると思います。


 これは至極当然のことで、世界中の人々は、「自分や自分の民族のアイデンティティ」についてずっと考えていますので、


「わたしはどうして存在しているのだろう」


とか


「この世界はなぜ存在しているのだろう」


とか、そういう根源的な問いかけを誰もが長い歴史の中で行ってきたからです。




 その答えとして、何らかの創造主を設定したり、天地を作った神を設定したりしたことは、とても当たり前のことだと言えるでしょう。



 しかし、ここからが問題です。




 創造主は存在する、と一応いたしましょう。



 しかし、その創造主が「自分だけを信じなければ滅ぼす」とか、「自分だけを信仰しなければ、未来を奪う」とか、そんな強制的な言動を取る事に、はたして合理性はあるでしょうか?




 たとえば日本の神話のように、


「創造主はいるけれど、別に私たちに干渉しない」


とか


「創造主はいたけれど、それは昔の話で、今はどうなんだろうね」


とか、そんな風に



あなたに何か関わってきたりはしない存在


であっても、ちっともかまわないのではないか?と思ったりしてみるのはいかがでしょうか?




 日本の神様は、日本人にあまり関わってきません。ギリシャ神話の神も、現代のギリシャ人に崇拝を要求したりはしないのです。



 つまり、創造主がいたとしても、彼らが「私たち人間に、圧力をかけてくる」存在だと思ってしまうことは、実は世界でもイレギュラーな発想だというわけです。



 大事なことなので、何度も言います。


「エホバが、あるいは創造主が存在していることは全然かまわない」のです。


でも、


「エホバはなぜ、創造主は自分だけなのにわざわざ自分以外を崇拝するなと言うのか?」

とか

「全能の神なんだから、もとから好きなようにできるじゃん」

とか、

「旧約聖書の時代には、エホバはヘブライ人以外を救う気がなく、むしろエリコの城壁のように滅ぼされちゃったりしてるけど、みんな被造物なんじゃないの?」

とか、


そういうふつうの見方、視点で物事を見て欲しいということなのです。



 たとえば、こんな発想はいかがでしょう。


「日本の初期の縄文人は、神に救われるのか?」


とか


「北京原人は、神に選ばれるだろうか。それとも、拒絶されるだろうか」


とか、そうした合理的な疑問こそが、あなたの心を解き放つのです。



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 エホバの証人の教義に従えば、



「縄文人は、イエスキリストの死によって、人類の原罪が許され、福音を得たので、最後の審判でよみがえる」

ということになるでしょう。北京原人もそうです。



 しかし、縄文人も北京原人も、イエスという人物がいたなんてことは、これっぽっちも知らないし、無関心です。


 遠い中東の髭面のお兄ちゃんのことなどは、北京原人の興味の対象ではありません。



 でも!彼らは救われるチャンスを得るというのです!



 それもなんだか、よくわからん話やなあ!と思いませんか?




 もう一つ、面白い問題を取り上げましょう。



「豊臣秀吉は、最後の審判で復活するか?」


あなたはどう思いますか?



  秀吉は、キリシタンを弾圧しました。何人ものキリスト教徒を殺しています。しかし、エホバの証人の理論では、そのキリスト教の教えはカトリックなので、真理ではない。

 真理を学ぶチャンスがなかったのだから、エホバの証人としては秀吉は復活のチャンスありです。


 おなじことをカトリック教会に尋ねれば、 絶対に秀吉は天国へは行けないと言うでしょう。




 さて、どちらが正しいのか?考えてみてください。





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 正しい答えは、そんな話そのものが成立しない!ということです。


 復活の話も審判の話も、ある宗教における預言の解釈にしか過ぎませんから、秀吉は天国へも地獄へも行かず復活もできません。

 北京原人しかりです。



 結論は、創造主がもしいたとしても、あなたの人生には干渉してこないし、あなたの未来を与えたり奪ったりもしない、ということなのです。





  では、ここでさらなる課題が押し寄せます。



 あなたはこれまで、「神」をひとつの人生の拠り所にしてきましたね?



 では、これからは何を拠り所にすればいいのでしょうか?



 創造主を信じることはかまいませんが、彼を信じても「いいこともないし、別に悪いこともない」のです。


 だったら、私たちの生きる規範は、どこにあるというのでしょう!!!



 そんなお話をこのブログではおいおいしてゆこうと思います。