両親ともにエホバの証人であった私が、先に一人集会に行かなくなった件は、別のブログでも書いたとおりですが、
<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~
この時中学生であった私が考えたことは、「神とはいかなる存在であるのか」ということでした。
こうした、「自分にとって神とはどういう存在か」という疑問や自問自答については、宗教を離れるに当たっては重要な観点なのですが、 それまでの自分というのは必然的に
教義を基にした物事の捉え方のバイアス
がかかっていますから、 客観的な知識や視点がないと、どうしても教義のほうに引っ張られてしまうことになるわけです。
中学生の頃の私は、自分なりの視点で神を考察して、とりあえずはエホバの証人の王国会館へは行かなくなったのですが、それでも
「はて、聖書とは、神とは、イエスとはいったいなんだったのだろう」
という疑問については解消していませんでした。
そうした知識の足りなさを、のちに補ってくれたのが、これから紹介する一冊の本です。
それはNHKから出版されていた古い本で、
聖書―その歴史的事実 (NHKブックス 250)
新井 智
という良書です。アマゾンで売っているので、ぜひ興味のある方は読んで見てください。
さて、この本は1976年に初版ですから、かなり昔に書かれたものだということになります。
しかし、内容的には現代でも十分通用しますので、特に聖書の知識が「ある」人にとっては、むしろ学術的な興味をいっそうかきたてられるエキサイティングな本であるともいえるでしょう。
この本のアプローチの面白いところは
「歴史的事実に基づく聖書の世界の実像は、これこれこうだった」
ということをまず示そうという姿勢です。
それに対して、著者はれっきとしたキリスト教の信仰者ですから、
「歴史的事実はこうだったけれど、それを信仰として捉えるならば、このように受け止めることができる」
という視点もあわせて持って記述なさっているわけで、これを著者のオリジナルの言葉では
「信仰的事実」
と表現しています。
この著者さんの姿勢として好感が持てるのは、
「聖書の歴史やイエスはあくまでも人間らしいものであったかもしれないが、その歴史的事実としての聖書の世界は”それはそれとして”でも、私たちキリスト者はそこに信仰を見出すのだ」
という切り分けをきちんと押さえているところでした。
これは、一方で「クリスチャンであることを辞めた私たちにとっても、冷静であり、それでいてかつてキリスト者であった私たちを自分で納得できる意味づけ」となり得ます。
ちょっと難しい言い回しになりましたが、
「歴史の聖書像はこうなんだから、信仰はうそっぱちだ」
と頭ごなしに否定するものでもなく、
「いや、聖書に書かれた言葉が真実で、それを鵜呑みにすべきだ」
という妄信とも異なる、冷静な態度がそこにあるので、共感できるというわけです。
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さて、上の書がどちらかというと旧約聖書の真実を追ったものだとすれば、次に紹介するのは新約聖書の部分、つまりイエスの生涯にスポットを当てたものだといえるでしょう。
イエス・キリストは実在したのか
レザー・アスラン
こちらはややイエスの生涯に寄りすぎのきらいはありますが、当時のローマ支配下における”ナザレのヨシュア(イエス)」という若者が、何をしようとしていたのかが、理解できる良書だと思います。
過激派・活動家としてのヨシュアくんの姿が、どのように信仰の対象に変容していくのか、という点では、これまた聖書をよく知るものとしては、納得できるものとなるでしょう。
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さて、このたび私は、
「信仰的事実とは何か」
ということと
「歴史的イエスの姿は、いかなるものであったか」
ということを、かなりわかりやすく噛み砕く目的もあって、ひとつの物語を書いています。
それは、おもしろおかしいライトノベルの形式をとってはいますが、
「いかに人は、事実から信仰を創造しうるのか」
ということをテーマにおいた重要な問題提起でもあります。
作品は、
にあります。
「ヤンキー小田悠太の慟哭」
というタイトルで、まったくのギャグ小説ではありますが、最後まで読んでいただければ、
「歴史的真実としての聖書の世界、と信仰的事実としての崇拝の世界」
の織り成す綾(あや)のようなものを感じ取っていただけると思います。
エホバの証人であった私は、すでに聖書をこれくらい笑い飛ばせるものとして、受け止めております。
それでも、元エホバの証人らしいエッセンスがちょっとだけ残っていて、元Jのみなさんには共感していただけると思うのですが、いかがでしょう。
それは、イエスを「神的存在」として捉えず、あくまでも「神への服従を推し進めようとする従属なるもの」として描いている点です。
こわいですね~。おそろしいですね~。これが洗脳の成果なんですね~(笑)
いわゆる旧来のクリスチャンであれば、「救い」そのものは「イエス」によるところが大きいのですが、元Jなので、どうしても「救いは神にあって、イエスにはない」としてしまいがちなんですね。
このあたりの神学解釈は、元Jらしさが残ってしまってるなあ、と苦笑です。
三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。
余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。
あの物語は「イエスは結婚していて子孫がいる」という根幹的なモチーフがもとになっていますから、「歴史的イエス」「史実としてのイエス」を受け止めるにはとてもよいネタです。
Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。
余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。
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Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
楽しんでくだされば幸いです。