2018年9月15日土曜日

エホバの証人の不可思議な信仰スタイル ~その善、その正義、に幅がある理由~





 このブログは、主にエホバの証人を辞めた人、もしくは「辞めよう」と思っている人が多く訪れるブログだと意識していますが、仮にあなたがエホバの証人を辞めた元信者さんだったとしたら、覚えておいてほしいことが一つあります。



 それは




 この世界は、


「神を信じるか」


「人を信じるか」


「自分を信じるか」
 

の3通りの生き方しかないのだ、ということです。




 欧米社会の多くの人たちにとっては「神を信じる生き方」というのはデファクトスタンダードです。科学技術が発展した現在であっても、自分の生き方の芯に神を置いている、という人たちはたくさんいます。


 イスラム圏の人たちなどまさにそうで、「神を信じる生き方」に背くことはありません。(ただし、それをどのように表現するかでテロが起きたりするわけです)



 また、資本主義と共産主義、あるいは封建主義やリベラリズムなどのいわゆる「主義」と称するものは、


「神なき世界にあって、人はどのように生きることが善で義なのか」


を追求するものです。これらの生き方は「人は最終的にはよくあろうとする、もしくは、人は良くあらねばならない」という人類の英知を大きく信じるところから始まっています。




 そして、それらに失望したものは、最終的には「自分はどう生きるか」ということを問わざるを得ません。頼むことができるのは、もはや自分自身のみ、ということです。





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 エホバ、という神に背いた私やあなたは、もはや「人を信じるか」「自分を信じるか」の2通りの行き方しかないわけです。


 私は、基本的には「自分を信じる」という生き方を貫いていますが、 「人を信じる心」も持ち合わせているので、こうして不特定多数の誰かにもお話を書いています。




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 さて今日のお話は、ここから少し発展して、エホバの証人の奇妙な教義について考えてみましょう。


 私は、彼らの説くひとつひとつの協議や励行事項、禁止事項を取り上げてそれをどうこういうつもりは全くありません。


 そこではなく、



「いわゆる教祖がいないので、これが善でこれが悪であるという絶対的線引きがなく、ブレる」


というところや、


「具体的なように見えて、実は抽象的な戒律によって、誰もその真実を知らない」


というところに注目したいのです。



 最初の話である「神を信じる」スタイルの宗教であれば、たとえば天理教の中山みきさんのように、

「神とされるものからヨリシロを通して直接ことばが伝えられる」

ということがあります。


 幸福の科学の大川隆法さんも、そのスタイルです。いろんな神や聖人が、彼に降臨してその口から話す、ということになっています。




 「人を信じる」スタイルの宗教は、鎌倉仏教などではこの手法が際立っていました。神仏を信仰するのだけれど神仏そのものは何も言わず


「念仏が絶対なんだ」


とか


「お題目こそすべてだ」


とか


「宗教者の独自のスタンスや教えに従ってゆく」


スタイルがあるわけです。




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 さて、エホバの証人の場合は、「聖書に書いてあること」を主としながらも、実はその実行においてはかなりブレがあります。


 血を避けることに関してはかなりナーバス(神経質)ですが、ヒヅメがある動物やない動物の禁忌については無頓着です。


(このあたりはハラールを厳格に守るイスラム教徒や律法を守るユダヤ教徒のほうが真摯です)




 妻は夫に従うことと、世の人である夫をさげすむこととどちらが順位として上か、実は決まっていません。


 なので、あるときには「夫には従順であれ」というし、「悪魔には従うな」ともいいます。



 日々の信仰と、それにともなう生活の上では、こうしたちょっとした矛盾はたくさん出てくるので、現役の信者においても、こうした問題は少しずつ積み重なってゆきます。



 思春期の男女であれば、性について関心を持つこともあるでしょうが、聖書にはオナニーするとアウト!と書いてあるのに、オナニーの翌日に奉仕活動だっていけちゃうわけです。



 統治体のメンバーであったレイモンド・フランズの告白本「良心の危機」は、究極的にはこうした矛盾をついたものでした。


 この書物の中には、

「A国で迫害をうけていた会衆の仲間は、うそ偽り無く信仰を全うして弾圧を受けていた」


のに対して


「B国での会衆の仲間は、信仰を偽装して当局の弾圧を逃れていた」


ことがあり、それが両方統治体にどうすればいいか問い合わせが挙がってきているのに、統治体は


「答えを出さず無関心であった」


ことから、彼の信仰はゆらぎはじめたといいます。





 エホバの証人の教義は、おそらくすべてが万事この調子で、



「神は明確な答えを出さない」





「人である統治体も明確な答えを出さない」



のです。




「そこはほれ、自分たちの心で考えて、行動しなさい。神がみています」



と言うのみだったりします。



 つまり、信者は、聖書の内容と会衆の雰囲気と、与えられる出版物から



「忖度して生きてゆけ」



ということになるのです。


 これはある意味、ものすごく無責任な話で、行動する信者ひとりひとりですら、その行動の原理、理由を明確に責任をもてない、という意味ですごいことです。





 そのため、会衆の構成員には、いろいろな人が生じます。



A■ 世の人である夫にも従順で、真摯に聖書の教義について守ろうとする姉妹


B■ 世の人である夫をサタンだと陰口をたたきながら、「わたしは奉仕を頑張っている」とうそぶく姉妹


A■ 親子そろってエホバの信仰を守りながら従おうとしている長老家族


B■ なんで親はこんなに変なのかと思いながら友達もできず学校にもいきたくない長老の子




 
  おなじ信仰を抱いているはずなのに、メンバーの実態がこんな不思議な分かれ方をする宗教も珍しいのではないでしょうか。


 


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 こうしたことから、特に冷静に事態を見つめている2世からの視点では


A「エホバの証人は基本的にはいい人が多かったよ」


という温かいまなざしをもつ者と


B「エホバの証人は全員クソ野郎ばかりだった」


という恨みと呪いにも似た感情を抱く者に分かれます。




 このAジャンルの人たちとBジャンルの人たちは、なかなか分かり合うのが難しいかもしれません。




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 すべての根源は、





「神が、そして人が、『これが善でこれが悪である』ということを首尾一貫して矛盾無く語ろうとしない





ことにあります。





 神が明確に語ってくれるなら、これは簡単なことで、表面だけとりつくろって奉仕にいそしむ嘘つき姉妹は塩の柱になっていることでしょう。 



 毎週毎週、王国会館で塩の柱が増えてゆくのであれば、わたしたちはガクブルで、大真面目に神に忠誠を誓うことでしょう。


 瞬間でもよこしまなことを考えたら、命はないのですから。





 あるいは教祖がいる宗教のように、



「おまえには災いが起こるだろう!」



とバチッと言ってくれてもいいのです。それはそれで、信仰を強固なものにする基盤として生きてきます。




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 しかし、あいかわらず神は何も言わず、会衆も実はむにゃむにゃしているだけなのです。


 

 だったら、最初の話に戻りますが。残りは「自分を信じるしかない」のではありませんか?





 そういう意味では、私は「エホバの証人」という組織から離れて



「自分と神と1対1で直接対話をする」


というのはアリだと思っています。



 あなたと神との個人的な関係から、あなたがどう生きるべきかを再構築すれば、少なくともあなたの人生の責任を果たすことはできるでしょう。



(なので、エホバの証人を辞めようと思っている人に「エホバを捨てろ」ということは私は言いません。


神とは何か、どういう存在かを最初から問い直してみれば?とお勧めするのです)









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