2016年5月9日月曜日
【エホバの証人を辞めたあなたのために 1】 あなたは聖書を本当に読んだことがありますか?
とても興味深いことですが、現在エホバの証人として活動しておられる方々の大半は、
まともに聖書を読んだことがない
ということを指摘したら、みなさんは怒り出すでしょうか?(^^;
「いや、私はちゃんと聖書を読んで研究した!」
と否定したり、
「そもそもエホバの証人は、聖書をちゃんと研究する人たちの集まりであったはずだ」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
しかし、おそらくこのブログを今読んでおられる方の大半は、聖書を隅から隅まで通読なさったことがない方ばかりでしょうし、仮に、聖書を最初から最後まで読んだことがある方でも、
「読んでいる途中に感じたり、思った疑問を無かったことにしている」
人たちがほとんどだと思います。
そう、それは眼が節穴であったり、あるいはただ盲目的に読んでいるだけで、
そこに本当は何が書いてあるのか
について、心の底から渇望し、漁るように読んだ人は、皆無であることでしょう。
なぜ、こんなことが言えるかというと、聖書をきちんと最初から最後まで読んでいると、
「いくつもいくつも、普通に考えていては理解できない矛盾点や、話の相違、また、あまりにも不可思議な状況が立て続けに登場する」
からです。
そうです。現在残っている聖書に書かれている内容は、一貫性がなかったり、現代人から見ると不思議な内容がたくさん書かれているのです。
たとえば、
「アダムとエバの子供たちは、近親相姦して増えていったのか?」
とか
「エホバは異教徒の妻子、幼子に至るまで殺しつくせと命令している。(その人たちもエホバの被造物であるはずなのに)」
とか
「おなじ話が何度も出てくる」
とか、数え挙げればきりがないくらいおかしな記述が含まれていることは、有名です。
こうした「謎」な現象が起きていることについて、エホバの証人は以下のように説明することが多いと思います。
【エホバの証人の見解】
聖書は神の霊感によって人が書いたものであるが、その内容は比喩や、本来は異なる意味での記述が多いために、文章そのままに読み解くことは間違っている。
なので、きちんとした聖書研究のもとで読んでいかなければ、間違った理解をしてしまう、というわけです。
・・・ああ、なるほど。たしかにそうかもしれませんね。
では、ここで、せっかくエホバの証人を離れたあなたのために、他のキリスト教ではどのように考えているか、ご紹介しておきたいと思います。
【カトリックの見解】
聖書は、ふつうの人間に理解できないことが書いてあるので、聖職者以外は読んではいけない。
なんということでしょう!
カトリックでは、そもそも、ふつうの信者は聖書を読まないのです。カトリックにおいては、神の次に教会や聖職者が権威を持っていますので、聖書そのものではなく、「教え」に重点がおかれるために、聖書を読ませない、というわけです。
そんなカトリックの教えに反発し、「聖書に立ち戻ろう」という運動を推し進めたのが「プロテスタント」系のキリスト教ですから、プロテスタントではもちろん聖書を読んでかまいません。
しかし、その理解は、当然エホバの証人と同じく、「正しい解釈」が重要視されるわけです。
でも、「正しい解釈」とは、いったい誰が決めた解釈なのでしょう。
ところで、せっかくエホバの証人を離れたあなたですから、いわゆる「世の人」たちがどのように聖書を見ているかを知っておいてもよいかと思います。
【歴史学者の見解】
聖書は、中東地方の人たちが特定の神を信仰して、それに関連する記述を長い時代をかけて執筆したり転記したりしているため、おなじ話がかぶったり、原始的な宗教の特徴も記載されている。
まず、理解してほしいのは、上のような見方です。
聖書は、人が書いたものです。そして、その内容は、書いた人物の思想や、「こうあってほしいという理想」や「こうしたいという意図」が書かれたものであるということです。
ということは、聖書にまつわる真実は、以下のようなことだと気づきます。
「近親相姦を認めていたのは、神ではなく、それを書いていた当時の執筆者が認めていたのだ」
「異教徒を殺しつくしてよいと考えたのは、神ではなく、それを書いていた執筆者の考えだ」
「おなじ話が二度出てくるのは、『別の人物が書いた』か、そのことを書いた原本が2冊以上あったということだ」
・・・これが聖書を読む上での、基本だということになるのがわかるでしょうか?
このことを思い浮かべると、あなたは軽いショックを覚えるはずです。
なぜなら、聖書に書かれていることを「解釈」ではなく、
当時の執筆者の創作
だと認めると、
「そもそも、エホバという創造主が空想の産物かもしれない!」
と思わずにいられないからです。
さて、ここからあなたと深い話、長い話をつづけていかなくてはいけないのですが、聖書に書かれているエホバ像が、古代中東の宗教者が書いた創作だったとしたら、あなたはいろんな思いにとらわれて叫びはじめることでしょう。
もちろん、その叫びに、私も心から同意します!
「ああ!聖書にかかれたエホバが真の神ではないかもしれないが、この世界を作った創造主と呼べる神のような何らかの存在はいるのではないか?!」
「そうじゃないと、わたしたちがなぜこの世界にいるのか、説明がつかない!」
と。
あなたの驚きや、そこから発せられる叫び。それは私も同意します。たしかに、理屈で考えるとそういうことになるのです!
あなたが一旦、聖書に書かれた創造主を信じてしまった以上、その謎を解かない限り、心からの納得は得られない!
そのことは、私も心からそう思うのです!
・・・さて、「長い話になる」とあらかじめ書いたとおり、ここからこのブログでは、この疑問と謎を解決するべく、あなたと一緒にこの世界について考えてゆくことにしましょう。
そして、そのためには、今日たった今、軽く全否定してみた「聖書」の世界を、もう一度柱の陰からのぞきこんでみようと思います。
もう一度、聖書に立ち返ること。
そうすると、今まで見えてこなかった真実と、先ほどの「叫び」への答えが、ちゃんと見えてくるのです。
ぜひ、このツアーに、あなたも参加してください。
(次の記事へつづく)
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