前回の記事
なぜ母はエホバの証人にのめりこみ、その娘は苦しむのか?
http://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/03/blog-post.htmlでも書きましたが、私は自身の経験や学識を交えて2つの観点からエホバの証人の2世の問題について見ています。
一つは、宗教面・信仰面における1世・2世であるという信者としての思想信条の問題、それからもう一つは、そこから宗教を取り除いた「親子関係」の問題の両面を念頭に置いているというわけです。
エホバの証人の子供たちは、「自分たちは2世という特殊な状況にあって、そのために苦しんでいる」と思いがちですが、それはこの宗教に特有の選民思想の影響を少なからず受けていて、外部の人間から見れば、
「そういう特殊な状況」
とは、別に宗教だけでなく、片親とかDVとか、貧困とか、家族を取り巻く諸問題においては、
「(この世の人でも)みんな似たような状況は、実は存在するんだ」
というオチだったりするわけです。
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まあ、このあたりは、個別のケースによっても違うので、手助けが必要な人がいればアドバイスくらいはいくらでもしますが、今日はそこへ行く前段階として
「そもそも1世と2世の違い、抱えている根源的な闇はどのように異なるのか」
について、簡単に書きたいと思います。
1世信者は、自ら入信していますので、「この世界(この世)において悩みを抱えた人」が、エホバの証人の思想教義に触れて、
「自分は救われる(選ばれる)」
と感じた人たちということになります。
つまり、ネガティブな状況からポジティブな状況への転換があり、そこに「救い」があって、その救いを継続するために
「教えを守り続けたい、続けよう」
という能動的意思がそこにある、ということなのです。
しかし、2世信者は、最初から悩みなんてものはなく、親が従っている教義において「こうあらねばならない、ということは、たぶんそうなんだろう」という受動的な意思で動いています。
酷い言い方をすれば、2世信者ははなっから「神なんて求めていなかった」のです。なぜなら、苦しみとその代替としての救いを経験していないからです。
そうすると、2世信者の目の前に並べられるのは、数々の規範規則や、遵守すべき行動内容ばかりということになり、
「本来求めていた親子間の愛着愛情よりも、規範規則が上位に来る生活」
に縛られることになるのです。
ということは2世の子供たちにとって「渇望しているのは親との情愛なのに、それはいつまでたっても充たされない」ということが起きます。
表面的には従順であるこども像を演じていれば親から褒められることはあっても、それは親の内面から出てくるものではなく、組織からのものである、ということにも本能的に気付いてしまうんですね。
だから、彼らが求めているのは、神ではなく、親の本来与えられるべきであった愛情そのものだということになるわけです。
この愛着障害状態は、宗教関係無しです。
いわゆる毒親に生まれ、別段宗教に入ってなくても「親子関係に問題がある」場合は多々生じます。その子供達が求める愛情と、エホバの証人の2世が求める愛情には、
本質的にはそれほど違いはありません。
(↑ここ大事)
ところが、2世信者は、この世と隔絶されていることもあって、「自分のこの悩みは、特有のものであり、理解してくれる人はほとんどいないだろう」と思いがちです。
(実際にはそうではない)
そこで、組織下にありながら日々を悶々とすごし、表向きの模範的(霊的)な生活を過ごしながら、愛着に飢えるという悪循環を繰り返すことになるのです。
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私は教員時代に、宗教関係なくものすごい数の「通常の意味で」親子の愛着に課題を抱えている生徒と接してきました。
これを支えたり励ましたり、時には怒鳴りつけたりしながら、なんとかそれらしい自立の道へと送りだしてきたわけなのですが、このステップは、エホバの証人の2世のこどもたちにも
使える!!!
と思いながら、その生かし方を検討している最中です。
理想論としては
親 → こどもを向いている
子 → 親を向いている
つまり 親→ ←子 の向き合う関係が構築されていればいいのですが、実際は
親 → 神(組織)を向いている
子 → 親を向いている
つまり 子 → 親 → 神・組織 という、親にそっぽを向かれている関係が続きます。
本当は、こどもたちは、大好きな親に、なんのバイアスもなしにちゃんと向き合って愛情を感じ合いたいと思っているだけなのです。
そんな難しいことは言ってない。
「おとうさん、おかあさんが好き」
「わたしもあなたが好き(無条件に)」
ということを確認したいだけなのです。
でも、教義というものによって、その純粋な感情はアンビバレントなものになってしまう。条件付のバイアスがかかってしまうので、子供たちは泣きたくなるのです。
ここで、必要なのは、とてもシンプルな解決法で、
誰か → 子
誰かがこどもをちゃんと見つめることができればいいわけです。親の代理ではありますが、
誰か → ← 子
が向き合うことができる関係を擬似的に構築できれば、第一段階はクリアできます。
(学校の先生というヤツは、こういう介入の仕方をするのが仕事であり、プロです)
ですが、この誰かは第三者なので、第ニ段階が必ず生じます。誰かが子供ときちんと向き合ったとして、それはそもそも擬似的な親子関係の代替なので、
本物の親子関係(向き合う人間関係)を修復する必要
は残ったままだったりします。もちろん時間はかかります。
逆に言えば、もし、本物の親子関係が修復できないのであれば、この擬似的な誰かと子供の関係は
「納得のいく、落しどころのある向き合う関係」
に収束させねばなりません。
わかりやすい例でいえば、たとえば子ときちんと向き合ってくれた人物が、その子と結婚をするなんてことが起きれば、二人はとても幸せになれることでしょう。
「これは、愛なんだね」
という納得感のある、落しどころのある向き合う関係になるので、仮に両親とは疎遠であっても生きていけるわけです。
ちなみに、ここで愛という言葉を書きましたが、これは上の例では「男女」にしちゃいましたが、いわゆる4つの愛ならどれでも成立します。
きちんと向き合える誰か、がしっかりとした友人(フィリア)であってもいいし、男女の間の恋(エロス)でもいいでしょう。
本来なら親子の愛(ストルゲー)の代替なので、こちらもしっかりとしたきょうだいがいれば、兄弟・姉妹間の絆(これもストルゲー)でもかまいません。
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さて、ここに出てこなかったのが、神からの無償の愛であるアガペーさんなのですが、さすがに神はエホバの証人のこどもたちの前には光臨してこないので、これは無理かも(笑)
ただ、私は個人的には、この神からの愛を擬似的に再現する、という試みをやってます。
(これはあくまでも私個人の話です)
言い方を変えれば、人が神になろうとするおこがましい行為なので、ほめられたもんではありません。
まあ、この話は、メインのブログのほうに書いていますので、好きな方はどうぞ。
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