2017年9月28日木曜日

エホバの証人の信仰から逃れられた理由 ~聖書を本当に理解する良書~



 両親ともにエホバの証人であった私が、先に一人集会に行かなくなった件は、別のブログでも書いたとおりですが、



<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~ 
 https://satori-awake.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html



この時中学生であった私が考えたことは、「神とはいかなる存在であるのか」ということでした。


こうした、「自分にとって神とはどういう存在か」という疑問や自問自答については、宗教を離れるに当たっては重要な観点なのですが、 それまでの自分というのは必然的に



 教義を基にした物事の捉え方のバイアス



がかかっていますから、 客観的な知識や視点がないと、どうしても教義のほうに引っ張られてしまうことになるわけです。


 中学生の頃の私は、自分なりの視点で神を考察して、とりあえずはエホバの証人の王国会館へは行かなくなったのですが、それでも


「はて、聖書とは、神とは、イエスとはいったいなんだったのだろう」


という疑問については解消していませんでした。


 そうした知識の足りなさを、のちに補ってくれたのが、これから紹介する一冊の本です。


 それはNHKから出版されていた古い本で、



聖書―その歴史的事実 (NHKブックス 250)

新井 智


という良書です。アマゾンで売っているので、ぜひ興味のある方は読んで見てください。

https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BA%8B%E5%AE%9F-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-250-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E6%99%BA/dp/4140012501/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1506592437&sr=1-1 




 さて、この本は1976年に初版ですから、かなり昔に書かれたものだということになります。

 しかし、内容的には現代でも十分通用しますので、特に聖書の知識が「ある」人にとっては、むしろ学術的な興味をいっそうかきたてられるエキサイティングな本であるともいえるでしょう。


 この本のアプローチの面白いところは


「歴史的事実に基づく聖書の世界の実像は、これこれこうだった」

ということをまず示そうという姿勢です。

 それに対して、著者はれっきとしたキリスト教の信仰者ですから、


「歴史的事実はこうだったけれど、それを信仰として捉えるならば、このように受け止めることができる」


という視点もあわせて持って記述なさっているわけで、これを著者のオリジナルの言葉では


「信仰的事実」


と表現しています。


 この著者さんの姿勢として好感が持てるのは、

「聖書の歴史やイエスはあくまでも人間らしいものであったかもしれないが、その歴史的事実としての聖書の世界は”それはそれとして”でも、私たちキリスト者はそこに信仰を見出すのだ」


という切り分けをきちんと押さえているところでした。


 これは、一方で「クリスチャンであることを辞めた私たちにとっても、冷静であり、それでいてかつてキリスト者であった私たちを自分で納得できる意味づけ」となり得ます。

 ちょっと難しい言い回しになりましたが、

「歴史の聖書像はこうなんだから、信仰はうそっぱちだ」

と頭ごなしに否定するものでもなく、

「いや、聖書に書かれた言葉が真実で、それを鵜呑みにすべきだ」

という妄信とも異なる、冷静な態度がそこにあるので、共感できるというわけです。


 ==========


 さて、上の書がどちらかというと旧約聖書の真実を追ったものだとすれば、次に紹介するのは新約聖書の部分、つまりイエスの生涯にスポットを当てたものだといえるでしょう。



 イエス・キリストは実在したのか

 レザー・アスラン


 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%BC-%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4163900934/ref=sr_1_22?s=books&ie=UTF8&qid=1506592979&sr=1-22&keywords=%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%80%80


 こちらはややイエスの生涯に寄りすぎのきらいはありますが、当時のローマ支配下における”ナザレのヨシュア(イエス)」という若者が、何をしようとしていたのかが、理解できる良書だと思います。


 過激派・活動家としてのヨシュアくんの姿が、どのように信仰の対象に変容していくのか、という点では、これまた聖書をよく知るものとしては、納得できるものとなるでしょう。



==========


 さて、このたび私は、


「信仰的事実とは何か」

ということと

「歴史的イエスの姿は、いかなるものであったか」

ということを、かなりわかりやすく噛み砕く目的もあって、ひとつの物語を書いています。



 それは、おもしろおかしいライトノベルの形式をとってはいますが、



「いかに人は、事実から信仰を創造しうるのか」



ということをテーマにおいた重要な問題提起でもあります。



 作品は、
 
https://novel.daysneo.com/works/b0c04591422427ceda5bc3fbf689e1ff.html 





にあります。


「ヤンキー小田悠太の慟哭」


というタイトルで、まったくのギャグ小説ではありますが、最後まで読んでいただければ、


「歴史的真実としての聖書の世界、と信仰的事実としての崇拝の世界」


の織り成す綾(あや)のようなものを感じ取っていただけると思います。




 エホバの証人であった私は、すでに聖書をこれくらい笑い飛ばせるものとして、受け止めております。

 それでも、元エホバの証人らしいエッセンスがちょっとだけ残っていて、元Jのみなさんには共感していただけると思うのですが、いかがでしょう。



 それは、イエスを「神的存在」として捉えず、あくまでも「神への服従を推し進めようとする従属なるもの」として描いている点です。


 こわいですね~。おそろしいですね~。これが洗脳の成果なんですね~(笑)



 いわゆる旧来のクリスチャンであれば、「救い」そのものは「イエス」によるところが大きいのですが、元Jなので、どうしても「救いは神にあって、イエスにはない」としてしまいがちなんですね。


 このあたりの神学解釈は、元Jらしさが残ってしまってるなあ、と苦笑です。


 三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。


 余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。


 あの物語は「イエスは結婚していて子孫がいる」という根幹的なモチーフがもとになっていますから、「歴史的イエス」「史実としてのイエス」を受け止めるにはとてもよいネタです。

 Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
 



 楽しんでくだされば幸いです。




2017年7月25日火曜日

よくわかる 「エホバの証人とムチ(鞭)」の話 ~ムチ・トラウマも今日ですっきり解消!~



 エホバの証人の2世の子供達が、大人になってもずっと幼少時からの



 トラウマ



として心の傷になっている出来事として「ムチ(鞭)」の話があります。



 信者以外には伝わらないのですが、エホバの証人の2世の子供たちは、ちょっと悪さをしたり、集会中に居眠りをしたり、親や聖書に反することをすると



 ムチでしばかれる



という体験をするわけですが、 これが子供心に恐怖体験としていまだに残っているわけです。



 で、その恐怖とそれに対しての怒りの矛先が



「親と組織」



に向くわけですね。



「あの頃、ムチでしばきやがった親に対しての憎しみや不信感」


そして


「それを励行していた組織への怒り」


みたいなものを抱く2世は多いようです。



 しかし、そんな過去のトラウマをいつまでも引きずっていたり、それに囚われていては新しい人生も歩めないし、親ときちんとまっとうに向き合うこともできないので、今日は



「そういえば、あのムチって一体全体なんだったんだ?」



ということをすっきり解決して、新しい明日へ歩き出してもらおうと思います。というわけで、きちんと理解してすっきりしてください。





==========





 はい。そこで、今日のポイントは3つです。



■ あのムチはエホバの証人の専売特許ではなく、キリスト教の文化だ

 
■ ムチでしばかれるのは、「怒られているのではなく、元はイエスの追体験」


■ あのムチは、夜になるとエロい道具に変身するのだ!





 さあ、驚きのポイントを3つ挙げました。一つずつ解説します。




<1> ムチ(鞭)はキリスト教圏の文化である件

  エホバの証人だから鞭が登場するわけではなく、キリスト教圏ではあのムチは「当たり前の道具」として登場します。

 海外の人が、こどもに「おしりぺんぺんですよ!」としつけをする場合は、あのムチが自動的に登場するわけですね。


 ウィキペディアより「尻たたき」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BB%E5%8F%A9%E3%81%8D





 というわけで、欧米では宗教関係無く「指導者が生徒の尻をムチで叩く」という行為はけっこう当たり前に行われていたのですが、エホバの証人はアメリカの宗教なので、


 それを自動的に取り入れた


わけです。


 なので、日本では「ムチでおしりをたたかれる行為」はなんだか特別な虐待行為のように思われますが、欧米では意外と今でもふつうにやられている、という理解は大事。


(つまり、エホバの証人は特殊な事例ではなく、世界中にムチでしばかれたお友達がいる、ということです)







<2> ムチ(鞭)はイエスと密接に結びついている


 さて、キリスト教圏ではムチが普及しているわけですが、その理由はもちろんキリスト教のカトリックと関係します。


 この背景を知るには映画の「ダヴィンチ・コード」をいますぐ借りてきて見るのがわかりやすいです。

 見たことがない人は、すぐにレンタルしてきてください。


 ダヴィンチ・コードは、簡単にいえば「イエスに子孫がいた」という話なのですが、カトリック側の刺客としてオプス・ディの兄ちゃんが登場します。


 この兄ちゃんが、トゲトゲを体にまきつけては、ムチで自分をしばきまくるシーンが出てきます。



 これが、キリスト教圏でのムチの原点です。ようするに「イエスが受けた苦しみを自分も追体験することで信仰をより強くする」というわけですね。


 変態ですが。



 オプスディの解説をちょっと読んでみましょう。

 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4 



”
鞭や鎖を使用する肉 体的苦行は、カトリック教会においては非常に伝統的であり、かつ現代でも行われている

”


”
使用される鞭は、紐(ひも)を編んだ物で、金属やその他固い部分はなく、体に傷跡が残るような使い方ができないもの

”

”
 通常、週一回、「主の祈り」などカトリックの代表的な短い祈りを唱える間、自らが加減して使用します。

”


 ようするに、カトリックの苦行体験(修行)として、ムチを使うわけです。これが、変化して、上位者から下位者への指導としてのムチ使用が行われるようになってきました。




<3> 性的嗜好としてのパドリング


  ムチ(鞭)でしばかれると、それがトラウマになって、性趣向として記憶に残る場合があります。欧米の子供たちはおしりを叩かれる体験は日常ですので、いわゆる


 赤ちゃんプレイ


のような形で鞭が登場します。


 エホバの証人にとっては「聖句などが入った神聖なムチ」ですが、あれが世の中で出回ると、


「エッチなことばが入った、プレイの道具」


と化します。


 特に欧米ではそうです。あんなもんバッグに入れてたら、ど変態です。


 パドルという言葉で検索すると、なんということでしょう。




 とっても使い勝手のよさそうなムチがやまほど画像ででてくるはずです。



 アマゾンでも売ってます。


 また形状やら言葉が入っているところがエホバの証人が使っているものと似ていて面白いでしょ?

 これがキリスト教文化にひっぱられていることの証なのです。



 日本のエホバの証人は、内部の目線しかないので、海外からみるとこういう道具だということを知りません。きゃ、はずかしい。




 ==========


 というわけで、これまでムチの記憶に心を痛めていた人、あんなもん欧米のエロい道具とおなじなので、一刻も早く忘れて、「どうでもいいわ」と思ってください。



 むしろ、あのムチに囚われすぎていると




 変な性癖




を持ってしまう可能性もあります。これで、明日からすっきりですね!





 

2017年7月20日木曜日

 エホバとコーヒーと浣腸  の接点。 ~「部屋とワイシャツと私」じゃないんだから~




  エホバの証人になってしまう人は、



 「ものすごい病に侵されていて、今にも救いを求めている人」


や


「会社や地域でひどい状況に置かれていて、もう死にそうな人」



というわけではなかったりします。



 そう、意外と



普通の人、ふつうだと思われる人



がじわりじわりと信仰にハマっていったりするのはよくあること。





 今日は、直接的にはエホバの証人さんとは無関係ですが、



「トンデモ健康情報」から、健康カルトにハマった人の話



でも読みながら、わが身を振り返ってみたいと思います。




 トンデモ健康情報で家庭が崩壊した男性が語る、元妻の変化
 https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/kenkobon-03?utm_term=.wp3Pv447d#.efwjGnnr8

(BuzzFeedNewsより)





 ”加害者であり、被害者にもなるのは、身近な普通の人”



 ”誰でも疑わず、信じているささいなことが取り返しのつかない事態に”



 ”身内を疑うという発想がなかった”



 ”真実を知らない人、と下に見て、バカにするような態度を取るように”



 ”信じたいものを信じたいように信じる”



 ”彼女は肯定してほしかったんだと思います”



 ”伝道により承認欲求が満たされ、自己肯定感が得られてしまう”




 いやあ、身につまされますね。まるでどこかの誰かのお話を見ているようです。



 でも、この話はエホバや真理についてではなく、



 コーヒー浣腸



から始まっているというから苦笑する以外にありません。カルトたるもの、神も浣腸も同レベルだということです。




 できる限り良いモノを摂取したり、よいことをしたいと思うのは、すべての人に共通の当たり前の感覚だと思います。



 しかし、その「良いモノ、よいこと」の規準を正しい知識や客観的な視点でみることができないと、



「誰かの一方的な意見にハマってしまう」



という落とし穴があるわけです。



 それは、健康食品でも王国の良いたよりでも、全く同じことです。




 辞めJさんには、こういうバイアスのかかった情報に対する「ひっぱられ癖」がついている人が多いと思うので、ぜひ何事も自分の頭と心でしっかり考えるようにしてほしいものです。



 


2017年7月12日水曜日

毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~




 7月に入って、毎日新聞で「毒親」について女優の渡辺えりさんが回答したこともあって、ネット界隈では



「毒親問題」





がちょっとした関心を集めるようになっているようです。





 (参考)


■【毒親】何か気に入らないことがあるとすぐ寝込む母について19歳女性が相談
https://togetter.com/li/1126714




その前後にも、毒親関連の記事はちょくちょく話題になっていて、



■まさか自分が・・・多くの親に潜む「毒親」の兆候

http://toyokeizai.net/articles/-/172443



■両親ともに毒親 父親から「虚言癖」と言われたことがトラウマに

http://blogos.com/article/220918/



■もしかして私も?「毒親予備軍」の特徴とチェックポイント


http://ure.pia.co.jp/articles/-/74581



など、この春頃から記事になっているものがたくさんあります。





 ちなみに、このブログは特定の宗教についてスポットを当てていますが、


「毒親であるかどうかは、宗教とは関係ない」




とも言えるし、



「宗教のせいで毒親になるわけでもない」



ということは、把握しておいて良いと思います。


 それよりもむしろ


「もともと毒親であったものが、宗教のせいでよりひどく発現してしまう」





ことはあり得るでしょう。 教義でこうなっているので、私は正しいのだという動機づけがなされるからです。





 当事者として、この問題にどのような解決を得ればいいかは、最終的には人それぞれですが、




ひびわれたまご さんのブログ

http://blog.shinoegg.com/entry/2017/07/11/224141




などは参考になるかもしれません。





 この記事では



段階1  親に無条件で受け入れて欲しいと願っている希望


 

段階2  それがかなわないのは自分のせいであると考えてしまう過ち


段階3  あるいは親がすべて悪いと考えて拒絶すること


段階4  親に完璧さを求めず、それぞれが別個の人間であると理解する


段階5  実は「親が好きか嫌いか」とか「親が正しいか間違っているかとは、次元が離れているのではないか、と気付く




 といういくつかのステップについても触れられているので、それぞれの立場で共感を得やすいかもしれません。






 ==========





 さて、両親がJWの信者であり、自身は元2世で、かつ今となっては子供を持つ親である武庫川の考えは、これらすべてを包括したものとなっています。




 まず、親の立場で考えてみましょう。




「親はすべてにおいて完璧な指導者、保護者であるべきであり、そうでないものは親にはなれない」



という理想像があるとして、この理想にあてはまる人間はおそらく誰もいないと思います。



 イエスのたとえではありませんが



「この中で、親としてふさわしいものだけが、親になってよい」



と言うならば、その場の全員が立ち去ることになるかもしれません。




 ところが、この理想像は間違いで、「親としての資質を備えていなくても、妊娠と出産が可能」なようにすべての生き物は作られているわけです。



 ひどい場合には、「父親が誰であるかわからなくても妊娠が可能」であることを考えれば、親である資質や資格なんてものは、



 机上の空論である




とまで言っても過言ではありません。



(もし、資質がなければ産んではいけないなら、レイプのよって妊娠した子は全員堕胎させられねばならなくなってしまいます。それは変です)





 つまり、何度もいいますが、




「親であることは、資格や資質と結びついたものではなく、それが保証もされていなければ、確約もされていない」





ことが大前提なのです。






 そうすると、すべての親は誰しもはじめて親になるのですから、



「親ではなかったものが親であろうと頑張っているだけで、結果が伴うかどうかはわからない」



ということになります。




 そう、すべての親はダメ親である、ということからスタートするのです。





==========




 ここまでは、親サイドからの考え方でした。




 しかし、子供のうけとめ方は異なります。



「唯一絶対の存在である親に対しては、庇護してほしい」




と願うことは、これまた当然です。



 そして、「親の庇護の方法が、少なくとも小さい間には、それしかない唯一の知りえる存在である」ということも、実態としては当然なのです。






 厳密には、これは「核家族化された資本主義社会において起きる問題点」であって、人類共通の問題点ではありません。




  世界中のヒトの生活実態を見れば、ヒトは多くの国や地域でもう少し部族・氏族集団で生活をするので、



「親代わりに相当する大人や親族が廻りにたくさんおり、それらの中で相対的に親が存在する」



というスタイルのほうが、一般的です。




 父と母と子の閉ざされた集団で完結する枠組みで考えるから、両親が機能不全であればバックアップがまったくなくなるのであって、ヒトの本来の生活スタイルでは、



「毒親は存在しても、子に客観的な立場と逃げ場はたくさんある」




といえるでしょう。



==========




 残念ながら、毒親しか存在しない環境で閉鎖されて育ってしまった人は、某北の国で生まれ育って、そのほかの国を知らないで餓死した人のようなもので、


「自分の親がおかしいと気付かず、育ってしまう」



ことになります。


 なので、気付く以前のことは、某北の国とおなじでどうにもならないので、



 「気付いた後をどう生きるか」




しかありません。




 では、某北の国と同じなのであれば、できることはひとつです。


 それは、「脱親(離れる)」こと。


 新しい価値観の元で生きていくことです。




 脱Jの上に、脱親だなんて、エホバの証人の2世は、2度苦しむことになるのですね。



 

2017年7月1日土曜日

カルトなどの宗教を脱した人のための「新しい歩き方」 エホバの証人を辞めたあなたへ




 エホバの証人に限らず、カルトなどの「洗脳的支配」から脱した人には、どのようなプロセスを経て立ち直ることができるのでしょうか。



 これが、正解、というものではありませんが、ある一定の道筋のようなものはあってもよいかもしれません。



 そこで、私がネット界隈で遭遇した辞めJさんたちの言動や生き方をほわっと丸めながら、その歩き方をまとめてみましたのでご参考に。



(一度、ツイッターで呟いた内容の補足です)




 このプロセスは、以下のような流れになります。





■ 過去の振り返りや毒吐き

■ 聖書について真実を知る

■ 霊的にいっぺん死んでゼロになる

■ 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む

■ 自分が存在する意義の再構築

■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


などなど。





■1 過去の振り返りや毒吐き


 毒親的な1世親に育てられた2世の方や、あるいは会衆内でなんらかのトラブルに巻き込まれた方、または排斥に逢った方などは、


「自分が不遇な立場にあったり、ぶっちゃけ酷い目にあった」


ということを、ある程度外に放出することは、適していると考えます。


 それを黙って溜め込んだり、なかったことにする必要はありません。外へ出すことで「似た境遇の人の理解や共感を得る」ことができたり、自分の中で「言葉にして処理する」ことができるのであれば、それは有効な作業です。


 しかし、毒吐きは「相手や外部を悪くいうことによって、相対的に自分が善であったり、正義へ変わる」という効果と、同時に罠を生じさせます。



 毒吐きや文句を言うこと、誰かをののしることは「最初だけ許される小さなステップ」だと考えましょう。


 いつまでも毒吐きに終始することは、あなた自身もその毒の罠に陥ってしまうからです。






 ■2 聖書について真実を知る



 聖書に限らず、カルト的信仰が、「外部からどのように見られていたり、客観的事実に基づくと、実はどうだったのか」を確認する作業は大事です。


 信者は、教え込まれた教義のみを見ていますから、それ以外の視点があることで、より真実に近づくことができるのです。


 幸いなことに、聖書に対する学術的な検証や、聖書学としての見地から書かれた資料は、インターネットで多数得ることができます。


 どんな小さな質問でも、たとえばツイッターで投げかければ、答えてくれたり、その典拠を教えてくれる先輩もいることでしょう。



 この作業で大切なのは、「教義から離れる」という感覚です。 自分ではわかっていても、教義にしばられてしまうことは多々あります。


 「これがいけないことなのではないか?」と感じてしまったり、「そうはいっても、自分からは望まないことはできかねる」と思ったりすることは長く続きます。


 それが本当に聖書に由来するのか、立ち止まってみることは有効です。





■3 霊的にいっぺん死んでゼロになる


  私はこの作業を「もういちど逆バプテスマを受けてみること」と呼んでいます。


 一度死んで神に身を捧げたのとおなじことをやりましょう。


 組織や教義に属していたあなたは「一度死んで、まっさらな状態でもういちどこの世界に返ってくる」のです。


 あるいは、「何もないまっしろな世界に、生まれ落ちた状態」を作ってもよいです。


 それは若い人だけでなく、中年でも老人でもおなじです。もう一度まっさらになる、これが大事です。


 歳を取っていると、「組織に属していた年月が無駄になる」とか「その時間を損した」とか「いまさら、こちらの世界で出来ることは少ない」と考えがちですが、違います。



 そうではなく、「あなたには、この世界で生き生きと生きるチャンスを、たった今これから未来に向かって与えられたのだ」と感じてほしいのです。


 これは、ちょっと苦笑しながら書きますが、「エホバからのギフト」です(笑)


 まるで地上に生まれたアダムのように、「まっさら」なのですから、すべての経験は「ドキドキワクワクする良いもの」であるのです。





■4 創造主を自分なりに納得レベルへ落とし込む


 エホバの証人を辞めても「この複雑な宇宙や世界が、勝手にできたとは思えない」と感じることは多々あります。


 あるいは、「エホバという名前や性格とは異なっても、なんらかの創造主がいるのではないか」と思うことは当然です。


 ネット界隈の辞めJさんたちは、それぞれの感性でこの問いへの答えを持っています。


 これも、「何が正解」というわけではありませんが、神は存在していたとしても、あなたに厳しい何かをつきつけたりはしない、という感覚を持つことは安らぎとなるでしょう。


 ある先輩は 「神は、人類に干渉しないのだろう」という考えで納得しています。

 またある人は、「神は、人類だけでなく、他の被造物にも平等なのだから、人だけに何か関わってはこない。あるいはその分おなじことを他の被造物にもするはずだ」と考えます。

 あるいは、「神様は、ある種のゲームを楽しんでいる」と考える人もいるし、「箱庭をただ眺めている」と考える人もいるでしょう。


 それらの考えに共通なのは、


 「全知全能の創造主が、人などのちっぽけな行動にとやかくいうのは変だ」


ということです。それは神というより、いかにも人間らしい性格を持たされた、聖書の単なる記述なのかもしれません。






 ■5 自分が存在する意義の再構築


  第4段階くらいまでは、比較的楽に達成するのですが、5段階目くらいから苦しむ人は多いと思います。


 組織や教義によって作り上げられた自分は死んだ、としても、では新しい自分をどのように見つければいいのでしょうか。



 これは、一人では少し難しい作業です。


 多くの辞めJさんたちは、「夫や妻などのパートナーとの支えあい」の中で、新しい生活を再構築なさっている方が多いと感じます。


 
 相手がJW経験者であれ、あるいは世の人であれ、こちらの世界で新しい暮らしを作ってゆくというのは、誰かの助けがほしいところです。


 逆に、自分の家族が組織に残っている場合、ここでかなりヤラれます。


 自分は離れていても、家族の存在意義は組織や教義で構成されているので、分断されてしまうことで「自分の立ち位置まで引き裂かれてしまう」ように感じるのです。


 これをたった一人で戦うのは、かなり苦しいことと言わざるをえません。



 そこで、この点で苦しんでいる人がいれば、先輩である私や、あるいは辞めJさんである程度自分を確立なさっている人の手助けを得てほしいと思います。


 私は個人的には、この段階にいる方を応援します。



 「あなたは愛されるべき存在だよ」と口でいうのは簡単ですが、実の親からプレッシャーをかけられたりすれば、他人の発言より親の発言の方が重くなるのは当たり前です。



 じゃあ、救われないじゃん!と短絡的に落ち込まずに、ここからしっかり再スタートしてほしいのです。


 家族は敵のように感じられるかもしれませんが、あなたにはかならず味方がいると思ってください。







■ この世で生き抜く具体的方法を身につける


  こちらの世界で生きていくには、「お金」も必要だし、「仕事」も必要です。社会的な意味での「立場」のようなもの(べつに偉くなる必要はないですが、資格であったり、ポジションであったり)も必要になってくるでしょう。



 これは、理念ではなく具体的なノウハウを身につけることが大事です。



 時間や手間がかかるかもしれませんが、中高生が卒業して大人へなってゆくプロセスを、もう一度やり直す必要があるでしょう。


 特に若くして奉仕活動へ入ってしまった方は、本当にこの世での「学び」をやり直さなくてはならない場合が出てきます。


(まあ、やり直すと言っても、そもそもそれを避けて歩いてきているはずなので、ただこの世の人とおなじ通過儀礼を通るだけなんですが(^^;;)







 長々と書きました。それぞれの実情や状況に応じて、自分にとってはどうか考えていただければ、少し楽になるかと思います。



 エホバの証人を辞めることは、「カナンの地を求めて、モーセのグループとは離れて一人で歩き出すこと」になる険しい道のりを意味する場合だってあります。


  それは恐ろしいことのように感じられるかもしれませんが、実は先輩たちはたくさんいますので、彼らの言葉やヒントを羅針盤にしながら、歩き始めてほしいと思います。




 







2017年6月25日日曜日

エホバの証人を離れてから 「自分のなかの選民思想」とつきあってゆく方法




 エホバの証人の信仰を持つ上で、私達が大きく影響を受ける一番のポイントは、


「選民思想を持ってしまう」


ことにほかなりません。


”わたしたちだけが王国のよいたよりを持っているので、のべ伝えなくてはならない”


”わたしたちだけが、真理を知っている”


”わたしたちだけが、楽園へ行ける”



というエリート意識は、信者の生活の根幹となります。




 この選民思想は、ユダヤ人だけが神に選ばれ、カナンの地へ行ける、という旧約聖書の概念をそのまま現代的に教義化したものですが、エホバの証人の信者である時には、これが



「自分を励まし、鼓舞するアイデンティティそのもの」



となるわけです。





 この選民思想が、いろいろな弊害をも起こしていることは、エホバの証人から離れた人は、すでにご存知でしょうので、その点についてはここでは触れません。





 問題は、あなたがエホバの証人を辞めた後に生じる



『選民ではなくなった感』『エリートではなくなった感』『特権がなくなった感』『真理を見失った感』



といった喪失感とどう折り合いをつけてゆくのか、なのです。




 2世信者さんの多くは、もともとが制限の生活を送っていますので、組織から離れることで


「これで自由になったぜー!世のおともだちとおんなじことができるぜー!」


で済む人たちも多いのですが、なまじっか「真面目に聖書を学んでいた2世」や「自分から信仰していった1世」については、



 この剥奪感覚と喪失感覚にはハンパないものがある



と思います。






==========






 そのため、エホバの証人を辞めた人の中には、



『自分を見失い、いわゆる自分を傷つけるような悪に染まってゆく』


人や、


『ほんとうの真理とやらを求めてさまよい歩く信仰難民になってゆく』


人もいます。あるいは別の宗教へ鞍替えをする人もいるわけです。




 選民思想を失ったわたしたちは「ほんとうにちっぽけな存在で、何の価値もない、むしろこの世の人たち以下」になってしまうような感覚に襲われるわけですが、 私は、そうした不安におしつぶされそうになる人たちへの処方箋、救いの方法を知っています。



 安心してください。大丈夫です。あなたの感覚をきちんとサポートする方法はいくつかあります。



  どの方法があなたに合っているかはわかりませんが、例を挙げてみましょう。






■ 自分の過去を、価値のあるものとして認める方法


 自ら信者になった人は、「途中で寄り道をしたけれど、この世界の成り立ちについて考えた経験は、きっと自分だけの大切な体験である」と認めてみましょう。


 ご承知の通り、この世で生きている人の大半はそうしたことを考えずに過ごしていますので、これらの哲学的な問いと向き合ってきたことは、あなただけのアドバンテージとなります。


 自分の中の教養としての聖書は、かならずあなたの人生を豊かにすることは間違いありません。


 それはそれとして、否定せず認めてしまってよいと思います。



 私は、個人的には「創造主がいることは、自分の中で肯定してよい」という立場をとっています。


 聖書に書かれた創造主像や、いわゆるエホバの性格をしている創造主がいるとは思えませんが、もう少しニュートラルな神がいるかもしれない、と思うことは全く問題ありません。



 ※「ではどのような神が本当の真理なのか」といった部分に興味がある人は、私なりの答えはもう一つのブログに書いていますので、ご参照くださいませ。






■ 自分自身の価値を、別の次元から探し出す方法



 私は以前、高校教員をしていた関係で、カウンセリング的なアプローチを取ることが多々あります。


 現役の仕事をしていた時は、生徒たちは「エホバの証人」ではないわけですから、彼らや彼女らがいる世界の中で、


「生徒たち自身が価値を自分に見出せる方法」


をサポートするのが任務だったのです。


 もっとも簡単なのは、


「あなたはこれこれこういうことができるから、価値がある」



と評価することです。こうした良い点は、自分では気付いていないことも多いので、いわゆるメンターのような指南者がいれば、すぐに長所を見つけられることでしょう。




ですが、中にはそんな得意技や個性を持っていない生徒もいます。


 そうした人には、「あなた自身が、存在しているだけできちんと価値があるんだよ」ということを、示します。

 これも何の根拠もなくそう言われても意味がわからないと思うので、教師時代には個別の事情を考慮しながら生徒にサポートをしてゆくことがありました。





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 エホバの証人を辞めて、今こちらの世界で活躍なさっている人に、わたしからのお願いがあるのですが、



 ぜひ、あなた自身が過去を乗り越えて、新しく組織を離れた人のサポーターとなってください



と常に思っています。



 みなさんの中には、もと司会者として「誰かを組織に導いた」経験を持っている人も多いことだと思います。


 その技術を使って、まったく逆の内容を伝えることは、難しいことではありません。



 もし、私が持っている「新しい自分を見つけるプログラム」に興味があるという方がいれば、いつでも伝授しますのでぜひご連絡をください。


 一般的なカウンセリングなどでは、エホバの証人の実際についての知識や共感があまりないと思うので、その点で


「ああ、カウンセリングではわかってもらえないんだ」


と感じた方は多いと思います。その辺りは、まったく異なる配慮をしています。


 (宗教などとはいっさい関係がありません。ご安心ください。費用もかかりません)




 





2017年6月22日木曜日

エホバの証人、その崩壊の日は近い?! ~組織は「合理的」に失敗する~



 私はすでにエホバの証人という組織から離れて30年も経っているので、個人的にはこの宗教についてはあまりなんとも思っていないのですが、逆に30年ぶりに現在のエホバの証人の様子を訊くと、いろいろと変化が起きていてハテナがいっぱいだったりします(^^;;


 たとえば、ipadの活用なんかはその例で、どうして紀元前から守られてきた教えを伝えるのに、ここ数年で登場したガジェットを用いなくてはならないのかよくわかりません。



 まだ聖書冊子協会の名の通り、書籍や冊子を配り倒すほうが宗教としての性には合っているような気がするのですがいかがでしょうか。



 さて、ここで近年気になっているのは、「ハルマゲドンが来る!」といい続けてきた「くるくる詐欺」な側面のあったこの宗教ですが、 どうも、


 ハルマゲドンが来る前に、組織の終焉がやってくるのではないか


という予感がしています。


 あるいは、これは預言者ムコガワへの神の託宣かもしれませんがね(苦笑)





 そのことを裏付けるような、興味深い「世の」記事がありましたので、ちょっとそれを引用しながら考えてみたいと思います。



■東芝大失敗の研究~組織は「合理的」に失敗する~
(現代ビジネス)
  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51710



 奇しくも、東芝さんが、原発がらみの粉飾やらなんやらでえらいことになっていますが、上の記事では


どうして組織というものが「組織としてきちんと運行されようとしていながら、失敗するのか」


について解説がなされています。



 一見、エホバの証人とはなんの関係もなさそうですが、これは組織にとっては大きな課題でもあるのです。



 さて、どういうことか。




 組織がまじめに運用を検討していながら、合理的に失敗の道へ進んでしまうのは「取引コスト」のせいであるといいます。


 記事の中では、組織がその内部で行動を起こすときに、「きちんとやろうとして取り決めたルール」などを守っていると、そのおかげで良い結果がついてくる時期がまず存在することを説明しています。


 ところが、時代や状況が変わったりすると、「取りきめたルール」はこれまできちんと結果を出してきただけに、その変更には多大なエネルギーがかかったり、見えないコストが生じる、というわけです。


 なので、組織においては「変更のためのコスト」をてんびんにかけた結果、「以前のまま運用しようとして失敗する」ことが生じるのです。



 記事の中では、「旧日本軍が、戦術変更のコストに負けてしまった」例や、「東芝が原発撤退のコストに踏み切れなかった」例が挙げられていますが、



 JWの組織体制にも、つい思い浮かぶ「取引コスト」が存在する



ことが、あなたにも容易に想像できることでしょう。




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 離れた者として外部から眺めていると、エホバの証人というのは、実は意外と


「仕様変更に強い、柔軟なシステム」


を搭載していることに気付かされます。それはいわゆる「新しい光」ということばで、聖書の解釈や運用を、変更することができる、というシステムです。



 神様は必要な時に、新しい指針をお示しになられますよ、という理屈ですね。



 ipad投入なんかは、これで説明できるわけですが、実はエホバの証人には、根源的な「取引コスト」が存在していて、それは、



「ハルマゲドンが来る。その基準年は1914年である」


という教義の中核部分です。


 エホバの証人は、アメリカの聖書マニアであるラッセルさんが、「ハルマゲドンがいつやってくるのかをピラミッドの数字を用いて算出した」という学研ムーの世界とか矢追純一さんみたいな話なので、もともと聖書の厳密な研究によってもたらされたお話ではなく、



「思いつき」


レベルの教義からスタートしています。



 それが、興味深いことにエホバの証人にはいわゆる「絶対教祖」が存在せず、その運用を組織という人間ではない「集合体」に任せてきたものですから、


「もともと、あやふやなルールを、みんなでよくわからないまま運用する」


ということを長年やってきました。そうすると、ハルマゲドンが来る話も、復活の話も、14万4千人の話も、



「これまでそう信じてきたんだから、それを大事にしよう」



と思いがちで、これが完全なる取引コストと化すわけです。



 一方、時代に合わなかったり、解釈を変えた点があれば、それは新しい運用がなされるわけですが、(エホバの証人はこの更新作業が比較的多いほうなので、ある意味良心的?)そうするとそこがまさに取引コストの中核部分なので、



「以前から信じてきていた人は、コストとみなされたり、新しい教義と齟齬が生じる」



わけで、これはそのまま「組織への不信感、忠誠のゆらぎ」を生じさせるのです。




 なので、今のエホバの証人に何が起きているかといえば



■1 古い教義・取引コストを優先させようとすれば時代に合わなかったり、情勢と合致しなかったりするので、組織への不信や不満を招く



わけです。そして同時に、



■2 新しい教義を優先して取引コストを処理しようとすれば、これまでの積み上げが無駄になり、古参信者の不信や不満を招く



ことにもなります。ええ、どちらにしてもうまくいかないので、組織は頑張れば頑張るほど失敗するのです。





  というわけで、預言者ムコガワは、「目覚めよ!終わりの時は近い」と組織の内部のみなさんに警告しているのですが、



 その終わりの時とは、ハルマゲドンではなく、エホバの証人の分裂解体



を意味しています。



 それでなくても昨今のエホバの証人は、組織論として素人采配が多すぎます。




 まず、 内部で有能なエリートを育てず、学歴批判をすることで、組織の中枢を「アホ」ばかりにしていること。

(オウムの例でもわかるように、エリートは科学的知識を持っていても宗教を信じるのですから、2世を進学させたらいいのです)




 つぎに、奉仕時間のノルマを過剰に課すことで、信者が「現金を生産する」時間を奪い取っているために、組織が貧乏になっていること。

(通常のプロテスタントらしく、「仕事をして金を稼ぐことも神への奉仕」という視点をもてばいいのです。特開者へ払う金もなくなったらしいですな。)




 信者数の減少や排斥制度などで「追い出す」ことしか考えていないため、組織を維持するには「新しいカモを呼び込むしかない」のですが、そのために奉仕活動しかできない人材をやみくもに回転させる羽目になり、自転車操業状態になっていること。

(当然、新しく入信する人材は、どんどんレベルが低下する。組織や会衆が機能的に成立できず、長老の資質も下がる一方)



 そりゃ、古参信者からみたら、「なんじゃこりゃ。何が起きてるんだ」とよけい思いますわな。





 ムコガワはやさしいので、こうして組織が崩壊した後に「エホバ難民」となってしまった人たちの受け皿のようなものが必要だと思っているのですがねえ(^^;;;