2018年7月27日金曜日
カモンベイビーアメリカ U.S.Aとエホバの証人 ~80年代のハイソ会衆の思い出と考察~
この世のものにはあまり興味がない方も多いかもしれませんが、DA PUMPの「U.S.A」という楽曲が流行していることはご存知でしょうか?
もちろん、このブログのメインテーマである「さよならエホバ」に直接は関係ないのですが、先日テレビで放映されていたこの「U.S.A」を観ながら、あるいは
カモンベイビーアメリカ!♪
と歌いながら(笑)、思い出したことがあるのです。
それは、
「ああ、80年代のエホバの証人はアメリカナイズされた、まさにカモンベイビーアメリカだったのだな」
ということです。
U.S.Aがヒットしていることは、日本人の中にかつてあったアメリカ社会への憧れと、そうした機運があったことへの郷愁が入り混じりながら、恥ずかしいような懐かしいような、そういう複雑な感情が呼び戻されることにもあるのでしょうが、この2018年になって振り返ってみると
あの頃のエホバの証人とはなんだったのか
を思い起こさずにはいられないのです。そこで、少しだけ昔話をすることにしましょう。
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私が、いや、正確には私の母が所属していた80年代の会衆は、「ハイソな人たち」の集りであったように思います。
■ 未信者の夫が公務員やそこそこ大きな企業に勤めており、専業主婦である妻が姉妹。
■ 持ち家比率は高くないが、官舎公舎あるいは団地住まい。
■ 健康志向、無農薬、いまでいうロハス的な生き方への傾倒
■ 家族や友人間に流れるリベラル感覚
■ 穏やかもしくは優等生的な子供たち(2世)
会衆の構成員にこうした人たちが多く、また会衆全体の雰囲気も、上記のようなハイソサエティ感がそこはかとなく漂っている、という感じでした。
そして、かならずしも「エホバの証人」とは関係があったり領域が重なるわけではないのですが、タッパーウエアやアムウェイ・エイボン化粧品などの「ホームパーティ商法型マルチ」に関心があったり、あるいはそうした活動に絡んでいた人もおり、
「アメリカナイズされた、リベラル型のホームパーティ商法の宗教版」
がエホバの証人だったのではないか?と思わずにはいられないほどです。
私は関西でしたので、ここに灘神戸生協のコープ活動も加えてもいいでしょう。
『コープ商品やタッパーウエアなどの先進的・健康的な生活用品があって、子供はレゴで遊んでいて、旦那はいいとこの会社員、奥様は専業主婦で奉仕活動』
というのが、この80年代ハイソエホバの典型的なスタイルです。
そもそも、信者が増えてゆく過程も、ホームパーティ型でしたから、
「うちにいいものがあるのよ!一度遊びにいらっしゃらない?」
というマルチ系のノリに似ていて、そのとっかかりが別に信仰ではなく、どこかで見つけてきた「良いもの」を教えあう中で、個人研究が始まってゆくというスタイルも多かったように思います。
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今から思えば、現代のように女性の社会進出や貢献がまだまだ進んではおらず、当時としてはいわゆる
「妻としても女性としても意識高い系だった妻たちが、一種の社会貢献・社会奉仕として伝道活動にのめりこんでゆく」
という側面があったことがわかります。コープ活動や、エイボン化粧品などの女性の活動・活躍と親和性が高かったのもそうした側面があったからでしょう。
ちなみに、私個人は、その後とある田舎に引っ越したりしたので、ハイソではないスタイルのエホバの証人も知っているのですが、仮に生活水準が高くないとしても、基本的な傾向は似ていた部分があるのかもしれません。
夫はリベラルなため、別段反対もされないし、穏やかで誠実、健康的で文化的なことが好きな人たちの集まりであったため、生活ランクはともかく、専業主婦が活動する上では、特段障害やトラブルになることは少なかった、ということはあったと思われます。
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80年代エホバの特徴は、そのアメリカ型志向にあります。
ライフスタイルそのものが、「アメリカの敬虔なよき家庭」をモチーフにしていることからもわかるように、エホバの証人とは、
「よきアメリカ人のような、文化的でかつ敬虔なる生き方」
を体現するものでした。
しかし、同時に、その思想もまた80年代アメリカですから、必要以上に「北の王」つまり共産圏とソビエトを脅威としてみなしていた言説が多かったことを思い出すことでしょう。
80年代アメリカにおけるハルマゲドンとは、一般のアメリカ人が畏怖していた米ソ冷戦による突発的な核戦争の脅威そのものでした。
エホバの証人の教義では、核戦争がハルマゲドンであるという明示はありませんでしたが、特に「北の王ことソビエトの動向を注目していれば、しるしが見えるのではないか」という思想は明確にあったように思います。
そうした意味では、特に宇宙開発でソビエトがアメリカを凌いでいた頃の「負けてはいられない」イメージからか、「高等教育を受けて、勉強して賢くなること」については、全く否定されず、むしろ推奨されていた記憶があります。
80年代、エホバの証人の海老名ベテルで印刷された新世界訳聖書のコンパクト版は、聖書としては世界一の薄さで、その技術力を誇ったものでした。
技術力や智恵は神のみわざである
というイメージが、その時代には確かにあったのです。これもまた80年代アメリカの雰囲気を伝えるものだったことでしょう。
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現役の方にはあまり伝わらないかもしれませんが、この「ハイソなエホバ」の思い出をツイッターで書いたところ、思わぬ多くの反響を頂き、驚きました。
つまり、エホバの証人の中にも、この時代やこうした会衆の雰囲気を知っている人たちと、そうではない人たちがいる、ということなのです。
ここには、残念ながら大きな差があるのかもしれません。
しかし、こうして振り返ってみると、やはりあの頃のエホバの証人の生き様は
カモンベイビーアメリカ
だったのだな、と思わずにはいられません。
2000年代になり、アメリカも変わり、日本も変わってしまいました。
そうしたことが、かつてのような古き良きエホバの証人(←語弊のある言い方ですが)を維持できなくなっている原因なのでしょうか。
すこし、残念な気持ちになることも事実です。
2018年5月19日土曜日
エホバの証人の家族が崩壊する理由 〜 それは 霊的ネグレクト が起きるからである〜
久しぶりの更新ですが、今日、エホバの証人問題についての大きな「気づき」があったので書き留めて置こうと思います。
実はここ数ヶ月で、爆発的に「twitter界隈で、元JWを公言する方が増えてきた」という実状があります。
わたしは、本当のところは30年前に脱塔しており、このはかない人生の大半を「世の人」として過ごしているため、JW関係について何か書き残したり説明しようと思いついたのは、比較的最近のことです。
それはいわば、この世界で生きている「客観的な視点」でかつてのJW界のことを冷静に書けるからこそのブログ記事であり、ツイッターでのつぶやきなのですが、今日、とある方とお話をしていて
「JWにおける家族問題は、実は”霊的ネグレクト”という現象が起きているのではないか」
ということを発見しました。
これまでエホバの証人の家族問題は、80年代ごろは
「輸血禁忌における教義・戒律問題」
として着目されたのがスタートだったと思いますが、近年では
「毒親問題」
とからめてJWの親子関係が問われるような場面もありました。
このブログでも、JW親子の問題については何度か書いていて、
■ 毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/07/blog-post_12.html
では、まさに毒親の視点でまとめたことがあります。
ほかにも、
■ ”エホバの証人”の2世女子の生き方は、2つしかない。 ~その絶望と苦悩~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html
■ なぜJW2世には救いがないのか。 ~むしろ、死にたくなる理由~
https://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/05/jw.html
あたりでは、1世信者と2世信者の成立の違いや信仰の面から解説したこともありました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし、それらを包括したときに、エホバの証人の親子問題は
「霊的ネグレクトが起きる」
ということに尽きるのではないか、と発見したのです。
(霊的とは、エホバの証人の専門用語の一種ですが、信仰における、信仰上のネグレクト、というニュアンスが近いように思います)
というのも、エホバの証人の通常の信仰スタイルでは、彼らは基本的に「よき人、よき親」であろうとします。
つまり、毒親やヤバイ親が、こどもを虐待する、信仰を強制するのとは、多少意味合いが異なるのです。
あくまでも、親や1世、あるいは会衆の周囲の人は、本来は「よき人」であることが信仰の現れだと思っているわけです。
しかし、結果的に子供との関係が「ネグレクト」に近いものとなってしまうのは、どういうわけなのでしょうか?
ネグレクトとは、辞書では、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88
■ 養育すべきものが養育しない 怠慢や放棄
■ 与えない、放置する、学業などを取り上げる
ことを示します。
これは当然、子供たちにかなりのダメージを与え、人格を壊す大問題です。
ところが、いわゆるこの世で起きる「リアルなネグレクト」は、親に問題があったり、それこそ毒親であったり、経済的などに課題がある状況下でそうした放棄が生じるのですが、
「エホバの証人の家庭では、愛情があり、保護者が基本的には良心的であっても、
行動として霊的な面を皮切りにネグレクトが起きる」
ことに問題の根幹があるようです。つまり、良き人でありながら、悪しき人へと変貌する、その事態が起きるのがエホバの証人の家庭なのです。
その最たるもの(←これもエホバ語ですな)が排斥です。
何がしかの(教義上の)問題を起こしたことで、本来ならば愛情でつながるはずの家族が(霊的に)排除されてしまう、このシステムは、
「家族という絆を破壊する(霊的)ネグレクト」
そのものと言えるでしょう。
そして、大変遺憾なことですが、エホバの証人たちは
「霊的ネグレクトを”してはいけないことだ”と感じることができず、”霊的ネグレクト”を行うことが正しい」
と思い込んでしまうのですね。これはとんでもない事態です。
では、それが本当に正しいのか、あるいは間違っているかもしれないのか、その基準を決めるのは一体誰なのでしょう。
それは、行為の主体者である家族の構成員ではなく、会衆の長老や会衆という他人であることになります。
(おそろしいことに、教祖が決めるわけでも、協会そのものが決めるわけでもなく、あくまでも忖度された「会衆内部の人たちの合意」です)
エホバの証人システムが恐ろしいのは、「教祖が言ったからそうなんだ」という「仮にも責任者がいる」のではなく、
「自分たちが神とやらに勝手に忖度して、なんとなくイメージで決めている(統治体の解釈を含めて)」
ということです。
言い方によっては、
洗脳・マインドコントロールよりひどい!!!
と言えるでしょう。なぜなら、
「自分たちでそう自然に仕向けている」
ので、コントロールされた人たちのように
「本当に悪いのはあいつ、ではなく、自分で悪事を自ら生み出している」
からです!!!!!
これは、蛇に騙されたエバどころの話ではありません。
一刻も早く、このことに気づいてください。
そしてできることであれば、辞めJさんや、元JWさんのみなさんは、
「今、霊的ネグレクトに遭って、一人ぼっちでいる」
人を見つけたら、可能な範囲で手を差し伸べてほしいと思います。
私も、30年の時を経て、今これを書いているのは、そういうことなんじゃないか?と思っています。
2017年12月27日水曜日
エホバに逢わせてあげましょう 〜あなたが信じていた神は、こんな姿をしているのです〜
2017年もそろそろおしまい、ということで、新年からは新しい人生を過ごそうと決意しておられる方も多いことでしょう。
今年は、このブログもあまり更新できなかったので、2018年はもう少し有益な記事を増やしていけたらなあ、と思っています。
さて、タイトルどおり「さよならエホバ」ということで、今年の締めくくりは、
エホバに会っておこう!
というマニアックな内容でお届けします。
エホバの証人を辞めた、あるいは辞めようとしている辞めJさんには、せっかくですのであなたが全知全能の神として心底崇拝していた神様が、いったいどんな姿をしているのか、というお話にはとても興味があることと存じます。
というわけで、エホバにかつて最も近かったとされる古代の中東地方の人たちが、
「エホバはこんな姿をしているよ」
と描いた像がありますので、紹介しておく次第です。
じゃん!
↑これがエホバを描いた、もしかすると唯一かもしれない絵です。
この絵そのものはウィキペディアにも載っている有名なものですが、ウィキペディアの解説では、多少わかりにくいところがあるので、補足しながら読み解いていくことにしましょう。
(出典 ウィキペディア”ヤハウェ項” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7)
シナイ半島のクンティレット・アジュルド遺跡からみつかった土器(ピトス)に描かれていたこの絵がなぜエホバであるとわかったかというと、実は中央の2体の謎の人物の上部に
「サマリアのヤハウェとアシェラにより私はあなたを祝福する」
と記入してあったからです。
ただし、この文字が、直接的に2体の人物を指して「こっちがヤハウェ、こっちがアシェラ」と明示しているわけではないので、ウィキペディアでもどれがヤハウェなのかはっきり書いていない、ということが起きているのです。
この絵を全体的に見て、気づくことがあります。
1)左に牛の親子が描かれている
2)中央に2体の人物が描かれている
3)右に椅子に座った人物が描かれている
研究者たちの間でも、どれがヤハウェでどれがアシェラなのかは説が分かれるようで、
中央の二人組がヤハウェとアシェラのセットだ
という者もいれば、
左端の牛はヤハウェを象徴している
という者もいます。
また、椅子に座った人物が「リラ(たてごと)」を弾いているので、
これは音楽に合わせて神が踊っている
と解釈し、古代エジプトの「ベス神」と一体化していると考える者もいるとのことです。
ベス神は、舞踊と戦闘の神で、羊と羊飼いの守護神です。なるほどエホバっぽい要素を持っていることもわかりますが、その姿は
「頭がでかくて短足で大口で舌を出している」
姿でエジプトでは描かれたというのです。
たしかに、中央の二人組は、頭がでかくて短足です。
ちなみに、アシェラというのは、もともとは「エル」の奥さんの神です。それがエルとエホバが混同されはじめたため、
「エホバの妻は当然アシェラである」
と古代ヘブライ人たちにも考えられたのですね。
(ちなみに、エルとバアルの混同も起きたため、アシェラはバアルの妻でもあるわけです)
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さて、この論考の元ネタはMiksさんのブログ記事が出典なので、もっと詳しく知りたい人はぜひそちらも読んでほしいものです。
アシェラとは何だったのか
http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2010-02-03
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今日のお話で、エホバは頭でっかちの短足の牛もしくは異形のものであることがわかりました。
彼のために一生を捧げようと思っていた方には、かなりショックだったかもしれませんが、今日のお話から学んでほしいことは実はそこではありません。
古代ヘブライ人たちは、あのモーセを激怒させた
「金の子牛」
も「これがエホバだ」と言ったし、エジプトの神ですら「これもエホバだ」と考えていたわけです。
エルもバアルも「全部この際エホバだ」と考えていました。
終始そんな感じだったので、結果的には王国は滅びてしまうわけですが、懸命なる読者諸君にとってはひとつの自然な疑問が湧いてくると思います。
「え?じゃあ、ほんもののエホバはどれなの?」
と。
その疑問が出てくることを予想した人物が、実はたくさんいました。それが聖書の記述者たちで、彼らはほぼそれぞれの時代の
「神殿の神官」
だったわけですが、 彼らは中東地方にたくさん存在していた神々の物語を時には合体させたり、時には排除したりしながら
「自分たちの理想像に近いエホバ像」
を著述していった、というわけです。
そのあたりは
さよならエホバ ~心が安らかになりたいあなたのために・エホバの証人から離れる方法~: 【エホバの証人を辞めたあなたのために 4】 唯一絶対神に従わないとマズかった理由は? http://goodbye-jw.blogspot.com/2016/05/blog-post_70.html
の概出記事をご参照ください。
結局のところ、エホバは牛であり、頭がでかい短足妖怪であり、そして、全知全能で妬む嫉む神になってしまったわけですが、それらはすべて
「人間が、著述し、考え、想像した神」
に過ぎません。その時代やその場所、その民族によって、自分たちに都合がよかったり、彼らが信じたいと思った姿で信仰されてきたにすぎない存在だったのです。
なので、エホバの証人のそれぞれの信仰者が思い描くエホバ像も、好き勝手なものになりがちなのです。
多くの信者は、自分だけは救ってくれる神として都合よく解釈していますが、そもそもエホバはそういう存在なのですから、仕方ないのかもしれません。
しかし、そんなイメージの塊のような神に、あなたを救う真の力はあるのでしょうか?
来年があなたにとって幸せな一年であるように、と心から思います。
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために,
聖書物語
2017年9月28日木曜日
エホバの証人の信仰から逃れられた理由 ~聖書を本当に理解する良書~
両親ともにエホバの証人であった私が、先に一人集会に行かなくなった件は、別のブログでも書いたとおりですが、
<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~
この時中学生であった私が考えたことは、「神とはいかなる存在であるのか」ということでした。
こうした、「自分にとって神とはどういう存在か」という疑問や自問自答については、宗教を離れるに当たっては重要な観点なのですが、 それまでの自分というのは必然的に
教義を基にした物事の捉え方のバイアス
がかかっていますから、 客観的な知識や視点がないと、どうしても教義のほうに引っ張られてしまうことになるわけです。
中学生の頃の私は、自分なりの視点で神を考察して、とりあえずはエホバの証人の王国会館へは行かなくなったのですが、それでも
「はて、聖書とは、神とは、イエスとはいったいなんだったのだろう」
という疑問については解消していませんでした。
そうした知識の足りなさを、のちに補ってくれたのが、これから紹介する一冊の本です。
それはNHKから出版されていた古い本で、
聖書―その歴史的事実 (NHKブックス 250)
新井 智
という良書です。アマゾンで売っているので、ぜひ興味のある方は読んで見てください。
さて、この本は1976年に初版ですから、かなり昔に書かれたものだということになります。
しかし、内容的には現代でも十分通用しますので、特に聖書の知識が「ある」人にとっては、むしろ学術的な興味をいっそうかきたてられるエキサイティングな本であるともいえるでしょう。
この本のアプローチの面白いところは
「歴史的事実に基づく聖書の世界の実像は、これこれこうだった」
ということをまず示そうという姿勢です。
それに対して、著者はれっきとしたキリスト教の信仰者ですから、
「歴史的事実はこうだったけれど、それを信仰として捉えるならば、このように受け止めることができる」
という視点もあわせて持って記述なさっているわけで、これを著者のオリジナルの言葉では
「信仰的事実」
と表現しています。
この著者さんの姿勢として好感が持てるのは、
「聖書の歴史やイエスはあくまでも人間らしいものであったかもしれないが、その歴史的事実としての聖書の世界は”それはそれとして”でも、私たちキリスト者はそこに信仰を見出すのだ」
という切り分けをきちんと押さえているところでした。
これは、一方で「クリスチャンであることを辞めた私たちにとっても、冷静であり、それでいてかつてキリスト者であった私たちを自分で納得できる意味づけ」となり得ます。
ちょっと難しい言い回しになりましたが、
「歴史の聖書像はこうなんだから、信仰はうそっぱちだ」
と頭ごなしに否定するものでもなく、
「いや、聖書に書かれた言葉が真実で、それを鵜呑みにすべきだ」
という妄信とも異なる、冷静な態度がそこにあるので、共感できるというわけです。
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さて、上の書がどちらかというと旧約聖書の真実を追ったものだとすれば、次に紹介するのは新約聖書の部分、つまりイエスの生涯にスポットを当てたものだといえるでしょう。
イエス・キリストは実在したのか
レザー・アスラン
こちらはややイエスの生涯に寄りすぎのきらいはありますが、当時のローマ支配下における”ナザレのヨシュア(イエス)」という若者が、何をしようとしていたのかが、理解できる良書だと思います。
過激派・活動家としてのヨシュアくんの姿が、どのように信仰の対象に変容していくのか、という点では、これまた聖書をよく知るものとしては、納得できるものとなるでしょう。
==========
さて、このたび私は、
「信仰的事実とは何か」
ということと
「歴史的イエスの姿は、いかなるものであったか」
ということを、かなりわかりやすく噛み砕く目的もあって、ひとつの物語を書いています。
それは、おもしろおかしいライトノベルの形式をとってはいますが、
「いかに人は、事実から信仰を創造しうるのか」
ということをテーマにおいた重要な問題提起でもあります。
作品は、
にあります。
「ヤンキー小田悠太の慟哭」
というタイトルで、まったくのギャグ小説ではありますが、最後まで読んでいただければ、
「歴史的真実としての聖書の世界、と信仰的事実としての崇拝の世界」
の織り成す綾(あや)のようなものを感じ取っていただけると思います。
エホバの証人であった私は、すでに聖書をこれくらい笑い飛ばせるものとして、受け止めております。
それでも、元エホバの証人らしいエッセンスがちょっとだけ残っていて、元Jのみなさんには共感していただけると思うのですが、いかがでしょう。
それは、イエスを「神的存在」として捉えず、あくまでも「神への服従を推し進めようとする従属なるもの」として描いている点です。
こわいですね~。おそろしいですね~。これが洗脳の成果なんですね~(笑)
いわゆる旧来のクリスチャンであれば、「救い」そのものは「イエス」によるところが大きいのですが、元Jなので、どうしても「救いは神にあって、イエスにはない」としてしまいがちなんですね。
このあたりの神学解釈は、元Jらしさが残ってしまってるなあ、と苦笑です。
三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。
余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。
あの物語は「イエスは結婚していて子孫がいる」という根幹的なモチーフがもとになっていますから、「歴史的イエス」「史実としてのイエス」を受け止めるにはとてもよいネタです。
Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
三位一体ではないので、あくまでも神様がやることと、イエスがやることは切り分かれている書き方が、特徴です。
余談ですが、辞めJさんには何度も映画「ダヴィンチコード」を見ることをお勧めしています。
あの物語は「イエスは結婚していて子孫がいる」という根幹的なモチーフがもとになっていますから、「歴史的イエス」「史実としてのイエス」を受け止めるにはとてもよいネタです。
Jさんに特徴的な「ムチ」の話も登場しますので、ぜひレンタルしてくださいね!
楽しんでくだされば幸いです。
ラベル:
エホバの証人を辞めたあなたのために
2017年7月25日火曜日
よくわかる 「エホバの証人とムチ(鞭)」の話 ~ムチ・トラウマも今日ですっきり解消!~
エホバの証人の2世の子供達が、大人になってもずっと幼少時からの
トラウマ
として心の傷になっている出来事として「ムチ(鞭)」の話があります。
信者以外には伝わらないのですが、エホバの証人の2世の子供たちは、ちょっと悪さをしたり、集会中に居眠りをしたり、親や聖書に反することをすると
ムチでしばかれる
という体験をするわけですが、 これが子供心に恐怖体験としていまだに残っているわけです。
で、その恐怖とそれに対しての怒りの矛先が
「親と組織」
に向くわけですね。
「あの頃、ムチでしばきやがった親に対しての憎しみや不信感」
そして
「それを励行していた組織への怒り」
みたいなものを抱く2世は多いようです。
しかし、そんな過去のトラウマをいつまでも引きずっていたり、それに囚われていては新しい人生も歩めないし、親ときちんとまっとうに向き合うこともできないので、今日は
「そういえば、あのムチって一体全体なんだったんだ?」
ということをすっきり解決して、新しい明日へ歩き出してもらおうと思います。というわけで、きちんと理解してすっきりしてください。
==========
はい。そこで、今日のポイントは3つです。
■ あのムチはエホバの証人の専売特許ではなく、キリスト教の文化だ
■ ムチでしばかれるのは、「怒られているのではなく、元はイエスの追体験」
■ あのムチは、夜になるとエロい道具に変身するのだ!
さあ、驚きのポイントを3つ挙げました。一つずつ解説します。
<1> ムチ(鞭)はキリスト教圏の文化である件
エホバの証人だから鞭が登場するわけではなく、キリスト教圏ではあのムチは「当たり前の道具」として登場します。
海外の人が、こどもに「おしりぺんぺんですよ!」としつけをする場合は、あのムチが自動的に登場するわけですね。
ウィキペディアより「尻たたき」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BB%E5%8F%A9%E3%81%8D
というわけで、欧米では宗教関係無く「指導者が生徒の尻をムチで叩く」という行為はけっこう当たり前に行われていたのですが、エホバの証人はアメリカの宗教なので、
それを自動的に取り入れた
わけです。
なので、日本では「ムチでおしりをたたかれる行為」はなんだか特別な虐待行為のように思われますが、欧米では意外と今でもふつうにやられている、という理解は大事。
(つまり、エホバの証人は特殊な事例ではなく、世界中にムチでしばかれたお友達がいる、ということです)
<2> ムチ(鞭)はイエスと密接に結びついている
さて、キリスト教圏ではムチが普及しているわけですが、その理由はもちろんキリスト教のカトリックと関係します。
この背景を知るには映画の「ダヴィンチ・コード」をいますぐ借りてきて見るのがわかりやすいです。
見たことがない人は、すぐにレンタルしてきてください。
ダヴィンチ・コードは、簡単にいえば「イエスに子孫がいた」という話なのですが、カトリック側の刺客としてオプス・ディの兄ちゃんが登場します。
この兄ちゃんが、トゲトゲを体にまきつけては、ムチで自分をしばきまくるシーンが出てきます。
これが、キリスト教圏でのムチの原点です。ようするに「イエスが受けた苦しみを自分も追体験することで信仰をより強くする」というわけですね。
変態ですが。
オプスディの解説をちょっと読んでみましょう。
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4
”
鞭や鎖を使用する肉 体的苦行は、カトリック教会においては非常に伝統的であり、かつ現代でも行われている
”
”
使用される鞭は、紐(ひも)を編んだ物で、金属やその他固い部分はなく、体に傷跡が残るような使い方ができないもの
”
”
通常、週一回、「主の祈り」などカトリックの代表的な短い祈りを唱える間、自らが加減して使用します。
”
ようするに、カトリックの苦行体験(修行)として、ムチを使うわけです。これが、変化して、上位者から下位者への指導としてのムチ使用が行われるようになってきました。
<3> 性的嗜好としてのパドリング
ムチ(鞭)でしばかれると、それがトラウマになって、性趣向として記憶に残る場合があります。欧米の子供たちはおしりを叩かれる体験は日常ですので、いわゆる
赤ちゃんプレイ
のような形で鞭が登場します。
エホバの証人にとっては「聖句などが入った神聖なムチ」ですが、あれが世の中で出回ると、
「エッチなことばが入った、プレイの道具」
と化します。
特に欧米ではそうです。あんなもんバッグに入れてたら、ど変態です。
パドルという言葉で検索すると、なんということでしょう。
とっても使い勝手のよさそうなムチがやまほど画像ででてくるはずです。
アマゾンでも売ってます。
また形状やら言葉が入っているところがエホバの証人が使っているものと似ていて面白いでしょ?
これがキリスト教文化にひっぱられていることの証なのです。
日本のエホバの証人は、内部の目線しかないので、海外からみるとこういう道具だということを知りません。きゃ、はずかしい。
==========
というわけで、これまでムチの記憶に心を痛めていた人、あんなもん欧米のエロい道具とおなじなので、一刻も早く忘れて、「どうでもいいわ」と思ってください。
むしろ、あのムチに囚われすぎていると
変な性癖
を持ってしまう可能性もあります。これで、明日からすっきりですね!
2017年7月20日木曜日
エホバとコーヒーと浣腸 の接点。 ~「部屋とワイシャツと私」じゃないんだから~
エホバの証人になってしまう人は、
「ものすごい病に侵されていて、今にも救いを求めている人」
や
「会社や地域でひどい状況に置かれていて、もう死にそうな人」
というわけではなかったりします。
そう、意外と
普通の人、ふつうだと思われる人
がじわりじわりと信仰にハマっていったりするのはよくあること。
今日は、直接的にはエホバの証人さんとは無関係ですが、
「トンデモ健康情報」から、健康カルトにハマった人の話
でも読みながら、わが身を振り返ってみたいと思います。
トンデモ健康情報で家庭が崩壊した男性が語る、元妻の変化
https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/kenkobon-03?utm_term=.wp3Pv447d#.efwjGnnr8
(BuzzFeedNewsより)
”加害者であり、被害者にもなるのは、身近な普通の人”
”誰でも疑わず、信じているささいなことが取り返しのつかない事態に”
”身内を疑うという発想がなかった”
”真実を知らない人、と下に見て、バカにするような態度を取るように”
”信じたいものを信じたいように信じる”
”彼女は肯定してほしかったんだと思います”
”伝道により承認欲求が満たされ、自己肯定感が得られてしまう”
いやあ、身につまされますね。まるでどこかの誰かのお話を見ているようです。
でも、この話はエホバや真理についてではなく、
コーヒー浣腸
から始まっているというから苦笑する以外にありません。カルトたるもの、神も浣腸も同レベルだということです。
できる限り良いモノを摂取したり、よいことをしたいと思うのは、すべての人に共通の当たり前の感覚だと思います。
しかし、その「良いモノ、よいこと」の規準を正しい知識や客観的な視点でみることができないと、
「誰かの一方的な意見にハマってしまう」
という落とし穴があるわけです。
それは、健康食品でも王国の良いたよりでも、全く同じことです。
辞めJさんには、こういうバイアスのかかった情報に対する「ひっぱられ癖」がついている人が多いと思うので、ぜひ何事も自分の頭と心でしっかり考えるようにしてほしいものです。
2017年7月12日水曜日
毒親問題を解決する ~宗教関係なく、すべての親はダメ親である~
7月に入って、毎日新聞で「毒親」について女優の渡辺えりさんが回答したこともあって、ネット界隈では
「毒親問題」
がちょっとした関心を集めるようになっているようです。
(参考)
■【毒親】何か気に入らないことがあるとすぐ寝込む母について19歳女性が相談https://togetter.com/li/1126714
その前後にも、毒親関連の記事はちょくちょく話題になっていて、
■まさか自分が・・・多くの親に潜む「毒親」の兆候
http://toyokeizai.net/articles/-/172443
■両親ともに毒親 父親から「虚言癖」と言われたことがトラウマに
http://blogos.com/article/220918/
■もしかして私も?「毒親予備軍」の特徴とチェックポイント
http://ure.pia.co.jp/articles/-/74581
など、この春頃から記事になっているものがたくさんあります。
ちなみに、このブログは特定の宗教についてスポットを当てていますが、
「毒親であるかどうかは、宗教とは関係ない」
とも言えるし、
「宗教のせいで毒親になるわけでもない」
ということは、把握しておいて良いと思います。
それよりもむしろ
「もともと毒親であったものが、宗教のせいでよりひどく発現してしまう」
ことはあり得るでしょう。 教義でこうなっているので、私は正しいのだという動機づけがなされるからです。
当事者として、この問題にどのような解決を得ればいいかは、最終的には人それぞれですが、
ひびわれたまご さんのブログ
http://blog.shinoegg.com/entry/2017/07/11/224141
などは参考になるかもしれません。
この記事では
段階1 親に無条件で受け入れて欲しいと願っている希望
段階2 それがかなわないのは自分のせいであると考えてしまう過ち
段階3 あるいは親がすべて悪いと考えて拒絶すること
段階4 親に完璧さを求めず、それぞれが別個の人間であると理解する
段階5 実は「親が好きか嫌いか」とか「親が正しいか間違っているかとは、次元が離れているのではないか、と気付く
といういくつかのステップについても触れられているので、それぞれの立場で共感を得やすいかもしれません。
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さて、両親がJWの信者であり、自身は元2世で、かつ今となっては子供を持つ親である武庫川の考えは、これらすべてを包括したものとなっています。
まず、親の立場で考えてみましょう。
「親はすべてにおいて完璧な指導者、保護者であるべきであり、そうでないものは親にはなれない」
という理想像があるとして、この理想にあてはまる人間はおそらく誰もいないと思います。
イエスのたとえではありませんが
「この中で、親としてふさわしいものだけが、親になってよい」
と言うならば、その場の全員が立ち去ることになるかもしれません。
ところが、この理想像は間違いで、「親としての資質を備えていなくても、妊娠と出産が可能」なようにすべての生き物は作られているわけです。
ひどい場合には、「父親が誰であるかわからなくても妊娠が可能」であることを考えれば、親である資質や資格なんてものは、
机上の空論である
とまで言っても過言ではありません。
(もし、資質がなければ産んではいけないなら、レイプのよって妊娠した子は全員堕胎させられねばならなくなってしまいます。それは変です)
つまり、何度もいいますが、
「親であることは、資格や資質と結びついたものではなく、それが保証もされていなければ、確約もされていない」
ことが大前提なのです。
そうすると、すべての親は誰しもはじめて親になるのですから、
「親ではなかったものが親であろうと頑張っているだけで、結果が伴うかどうかはわからない」
ということになります。
そう、すべての親はダメ親である、ということからスタートするのです。
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ここまでは、親サイドからの考え方でした。
しかし、子供のうけとめ方は異なります。
「唯一絶対の存在である親に対しては、庇護してほしい」
と願うことは、これまた当然です。
そして、「親の庇護の方法が、少なくとも小さい間には、それしかない唯一の知りえる存在である」ということも、実態としては当然なのです。
厳密には、これは「核家族化された資本主義社会において起きる問題点」であって、人類共通の問題点ではありません。
世界中のヒトの生活実態を見れば、ヒトは多くの国や地域でもう少し部族・氏族集団で生活をするので、
「親代わりに相当する大人や親族が廻りにたくさんおり、それらの中で相対的に親が存在する」
というスタイルのほうが、一般的です。
父と母と子の閉ざされた集団で完結する枠組みで考えるから、両親が機能不全であればバックアップがまったくなくなるのであって、ヒトの本来の生活スタイルでは、
「毒親は存在しても、子に客観的な立場と逃げ場はたくさんある」
といえるでしょう。
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残念ながら、毒親しか存在しない環境で閉鎖されて育ってしまった人は、某北の国で生まれ育って、そのほかの国を知らないで餓死した人のようなもので、
「自分の親がおかしいと気付かず、育ってしまう」
ことになります。
なので、気付く以前のことは、某北の国とおなじでどうにもならないので、
「気付いた後をどう生きるか」
しかありません。
では、某北の国と同じなのであれば、できることはひとつです。
それは、「脱親(離れる)」こと。
新しい価値観の元で生きていくことです。
脱Jの上に、脱親だなんて、エホバの証人の2世は、2度苦しむことになるのですね。
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