2017年5月18日木曜日
エホバの証人の親子関係が、虐待的になる理由 〜その罪と罰がなぜヤバいのか〜
このブログは、基本的に、筆者がエホバの証人だった時代のことを念頭に置きながら書いているため、時代が異なる信者のみなさまとは、ニュアンスが異なる部分があることは否めません。
しかしまあ、そもそも2000年も前から続く教えとやらが、私の世代と今の世代のたかだか十年や二十年で
解釈や運用が違う
ということ自体がおかしいのですが、そこはまあ、百歩目をつぶって(苦笑)
近年に近い、若い世代のJW界隈の方と、ネットなどでお話をしていると、
「鞭(ムチ)」
がらみの話が、よく話題に登ります。
もちろん、「懲らしめのむち」という概念は私の頃からありました。
親が子に対して、「悪いことをしたのでお尻を出しなさい」というニュアンスでのいわゆる
「お尻叩き」
は、当時からあったし、別にJWに限らず、俗世でも「おしりぺんぺん」はよくある話です。
しかし、近年は、ゴムホースやら特別な手製のムチやら、何かしら
「専用の武器」
みたいなのが設定されて、それで叩かれるということが多いようで。
それも、私の時代には、お尻を叩かれるのは、よほどの悪事や反抗的態度があればこそで、たとえば、集会中に眠気を催した場合などは、
「トイレで顔でも洗ってきー」
なんてことはよくありましたが、
「後でムチでしばかれる」
など、そこまではありませんでした(ーー;;;
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、過去のエホバの証人の様子と、現在の様子を比較することが目的ではありません。
この「罪とムチ」の関係が、恐ろしいのは、その本質的な意味合いです。
現代では、「しつけのために、おしりペンペンする」という行為は、それだけで虐待的扱いをされており、虐待とまではいかなくても
体罰
として認識されていることと思います。
しかし、仮に、これらの行為が体罰で虐待であるとしても、
一般的な体罰・虐待と
エホバの証人の体罰・虐待は意味合いが異なる
ということは、理解しておくべきでしょう。
ここで、体罰を容認している父親や、学校の部活動の先生などをイメージしてください。
ある父親がいて、自分のこどもに悪いことをすれば体罰をする、という事態が起きているとしましょう。
あるいは、スパルタな学校の部活動で、ある先生が部員に殴るなどの体罰をしていると想像してください。
この場合、殴られたり罰を受けるこどもや生徒は、基本的には
「殴る、体罰をする、虐待をする父や先生の意に沿わないと罰を受けるんだ」
と解釈しますし、まさにその通りです。
これは、罰するものと罰せられるものが、直線的な人間関係で結ばれていることがわかるでしょうか?
父や先生と、こどもや生徒は、「指導者と被指導者」の一直線の人間関係で結びついています。
なので、仮に、「父親が愛してくれているから自分は叱られるんだ」とか「部活の指導の一環で、手が出ているんだ」と思い込めば、これは直線的であるが故に
ストレートに理解ができる
わけです。
==========
ところが、エホバの証人の教義だけではないですが、こうした宗教上の教義に基づいた
「善悪の判断」
には、大きな落とし穴があるのです。
それは、実際にムチをふるう主体(たとえば父親や教師に相当する人物)の意図や、基準によって行為が行われているのではない、という点です。
どういうことか、もう少し丁寧にくりかえしますね。
お父さんや先生が、自分の基準で殴るか殴らないかを決めており、それをこどもや生徒が受け止めざるを得ないのであれば、そこには父や先生という直線的な基準による罪と罰が成立します。
ところが、教義によって殴られる場合は
「基準や規範を定めている主体と、ムチをふるう主体が異なる」
ということが起きてしまうのです。
これは尼崎でおきた連続殺人(支配服従)事件の構造と同じで、主犯である角田容疑者の命令によって、その家族や親族が、互いに暴力を振るいあうように仕向けられていた
のとまったく同じ構図です。
規範の主体が別にあり、暴力者は、その意図を汲み取って暴力を正当化し、そうすることで、自分は
「正しい」
と正の教化を受けていくという、ヤバい状態にほかなりません。
==========
お父さんと先生が、暴力を振るう場合は、「自分という基準」がありますから、
「これは、怒鳴るレベル」
「これは顔面をハツるレベル」
「これは蹴り飛ばして辞めちまえ!と言うレベル」
などが、ある程度一貫しています。(指導者が分裂症でない限り)
ところが、基準が他所にある場合は、
「こうするのがよろしかろう」
「これだとさらによろしいに違いない」
「これが望ましいはずだ」
と基準はどんどん忖度によってズレてゆき、エスカレートします。
だから、集会で居眠りしただけで、ムチ打たれる、なんてことが本気で起きるのです。
これが、現在のエホバの証人の親子に起きている一部の問題点です。
私は幸いなことに、ここまでの脅威にされされませんでしたが、心をしっかり持っていない一部の信者は、すでにこの深みにハマっているものと思われます。
そしてさらに恐ろしいことに、会衆の指導者にはこれをコントロールする術がありません。
なぜなら彼らも、基準が外部から与えられており、自分のものとはなっていないからです。
現役JWのみなさんや、元JWの方で、ムチ関係で苦しんだ方は、この考え方を理解すれば、かならず多少救われるはずです。
このことは大事です。
なぜなら、ムチを使っていたあなたの親自身が「自分で基準を持てない状態に陥っていた」ということでもあるからです。
親が、望んでムチを使っていたというよりも、すでに角田容疑者のような悪の支配によって、
知らず知らずのうちに、そうなるように仕向けられていた
可能性があるとすれば、あなたは親たちがなぜそうなったのかを許せるのではないでしょうか?
2017年5月10日水曜日
なぜJW2世には救いがないのか。 ~むしろ、死にたくなる理由~
前回はエホバの証人2世の特に女性についての苦悩を説明しましたが、
■ ”エホバの証人”の2世女子の生き方は、2つしかない。 ~その絶望と苦悩~
http://goodbye-jw.blogspot.jp/2017/04/blog-post_12.html今度は男女関係なく、
JW2世、つまりエホバの証人2世であるだけで、死にたくなる理由
についてまとめてみたいと思います。
1世信者というのは、それがいかなる形であれ、「救いがある」という厳然たる大きなメリットがあります。
何か彼、彼女なりの苦しみがあって、それが信仰に触れることで「救われる」「楽になる」「希望が生まれる」という良いことがあるので、信者になってゆくわけです。
ところが、その信仰が前提であって、それ以外は「この世のもの、サタンの誘惑である」とするエホバの証人の教義からすれば、子供たちの生活は以下のようになるのです。
■ この世のお友達を作ってはダメ。
■ 誕生日や何か神以外を祝ったり記念する行事はダメ。校歌も歌っちゃダメ。
■ 剣道武道をはじめ、争いシーンのあるテレビや漫画はダメ。
■ 娯楽禁止。
■ タバコ・過度のお酒などの薬物的なものはダメ。
■ 自慰なんてもってのほか。
■ 自由恋愛禁止。
■ 高等教育はダメ。
■ 仕事に励んだらダメ。 奉仕しなさい。
■ 親の言うことと、聖書に書いてあることは絶対。歯向かったら滅びですよ。
■ 悪いことをしたり、言いつけを守らないと、鞭でしばきますよ。
そして、2世のこどもたちの視点で見ると、上記のような禁欲生活が
「これが永遠に続く世界がやってきます(はあと)」
なわけで、
そんなもんが永遠に続くのやったら、地獄やないかーーーーーー!!!!
という気持ちになるわけですね。
まるで、どこかの北のほうの国もびっくりな軟禁条例が続き、あまつさえ、反抗するとムチ打ちの刑なわけですから、
この世の地獄
以外の何者でもありません。
いっそ殺してくれ!いっそ死んでしまいたいわ!
と普通の子供ならなります。
※ちなみに、このブログの筆者は、どちらかというと真面目な神の僕だったので、あまりそこに反抗心は抱きませんでしたが、のちに神そのものに背くことを画策しはじめるのでした。ぐはははは。
というわけで、客観的に見れば見るほど、
1世信者の立ち位置と2世信者の立ち位置が大きく異なる
変な宗教だということがわかると思います。
これは大変によろしくない!
まさにこの世のマーケティング的経済理論によれば、「世代が変わって、新しい世代の顧客になんのメリットもない商品なんて、売れるわけがない」ということになりますよね。
そう、つまり「2世信者が受け取って嬉しいと思える、信仰的メリットがない」ことは、この宗教の
本質的な問題点であり、崩壊への自爆装置
であるということなんです。
ということは何が起きるのか。
すごく簡単です。団塊の世代以降、80年代に勢力を伸ばしたこの宗教ですが、2世から3世へと移行する期間に、
かならず信者数が激減し、金銭的にも体制が苦しくなる
ことは必定です。つまり、ハルマゲドンの前に、エホバの証人という体制そのものが、滅びを迎えるわけです。
というわけで、今のうちから、
「エホバ難民」
となる信者の方を、きちんとこの世に戻すべく、受け入れ態勢を整える必要があります。
その準備が、大切ですね。
登録:
投稿 (Atom)