2025年4月20日日曜日

★エホバの証人の教義の問題点と、その変遷

 

チャールズ・T・ラッセル(Charles Taze Russell)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活動した宗教的指導者で、「ものみの塔聖書冊子協会」(後のエホバの証人)の創設者として知られています。彼の教義と思想は多くの人々に影響を与えましたが、同時に多くの問題点や批判もあります。以下に、ラッセルの考え方と教義の主な問題点を詳しく解説します。


1. 独自の聖書解釈と預言の失敗

問題点:

  • 日付の予言:ラッセルは、1874年にキリストの「見えない再臨」が起きたと教え、1914年にはこの世の終わり(「この世の王国の終わり」)が来ると主張しました。

  • しかし、1914年には世界の終末は来ず、これは予言の失敗とされました。

  • 解釈の恣意性:ラッセルの聖書解釈は、特定の象徴や年代を恣意的に読み取っており、歴史的文脈や学術的聖書解釈とは一致しませんでした。


2. ピラミッド信仰(ピラミドロジー)

問題点:

  • ラッセルは、ギザの大ピラミッドを「神の石の証し」と呼び、聖書の予言と一致する神の設計であると主張しました。

  • ピラミッドの内部通路や寸法から「神の計画」を読み取ろうとする方法論は、非科学的かつ神秘主義的であり、後のエホバの証人組織もこの教義を否定・放棄しています。


3. 三位一体の否定と異端視

問題点:

  • ラッセルはキリスト教正統教義である三位一体を否定し、イエス・キリストを「神の子」であるが「神ではない」としました。

  • これはニカイア公会議以来の伝統的キリスト教とは大きく異なり、主流派の教会からは異端とみなされました。

  • また、聖霊を人格としてではなく「神の活動力」と定義し、正統的キリスト論・神学とは乖離しています。


4. 教義の固定化と組織への絶対的服従

問題点:

  • ラッセルの教えは「神からの啓示」とされ、疑うことができないものとされていました。

  • これは、自由な信仰探究や批判的思考を抑制し、信者に対する精神的コントロールを強める要因となりました。

  • 彼の死後、組織はさらに中央集権的になり、教義への絶対服従が求められるようになったという指摘もあります。


5. 反体制的傾向と政府批判

問題点:

  • ラッセルの教えには、この世の政府や権力への不信が強く表れており、「神の王国」以外のあらゆる政治体制を否定的に見ていました。

  • これは、信者が市民社会との関わりを拒否する傾向を助長し、極端な分離主義に向かうことがあります。


6. 神学的訓練の欠如

問題点:

  • ラッセルは正式な神学教育を受けておらず、彼の教義はしばしば聖書本文の誤読や誤解に基づいていました。

  • 彼の解釈はしばしば、原語(ヘブライ語・ギリシャ語)の文法的・文脈的理解に欠け、根拠が薄弱でした。


総合的な評価

ラッセルの思想は、「真理の探求」という点で誠実さも見られますが、その教義や方法論には以下のような根本的な問題があったと言えます。

  • 聖書解釈の非学術的・神秘主義的傾向

  • 実現しない預言による信者の混乱

  • 組織的独善性と自己正当化

  • 神学的整合性の欠如

現代の宗教学や神学の観点から見ると、ラッセルの教えは一部の信者に希望を与えた一方で、多くの神学的・倫理的問題を含んでいたとされます。


それでは、チャールズ・T・ラッセルの時代から現代のエホバの証人(ものみの塔協会)に至るまでの教義の変遷を、重要なポイントに分けて詳しく説明します。


🔄 エホバの証人における教義の変遷

第1期:チャールズ・T・ラッセル時代(1870年代〜1916年)

特徴

  • 個人主導の研究グループ的性質が強く、教義の「模索期」

  • 聖書研究者(Bible Students)という名称を使用

主な教義

  • キリストの「見えない再臨」は1874年に起こったと主張

  • 1914年は「この世の王国の終わり」とされるが、実際は「神の王国の支配の開始」に解釈変更される(のちの時代)

  • ピラミッドに神の啓示があると信じる(ピラミドロジー)

  • 地獄の否定、不滅の魂の否定(死後の意識はないとする)

備考

  • この時期は比較的柔軟で、組織的な統制は弱かった


第2期:ジョセフ・F・ラザフォード時代(1917年〜1942年)

特徴

  • 組織の中央集権化と教義の厳格化

  • ラッセルの教えの多くを否定または再解釈

主な教義変化

  • 1874年→1914年:キリストの再臨の時期を1914年に修正

  • 1918年と1925年の「復活の予言」→実現せず(例:アベル、アブラハムなどの復活)

  • 「神の王国」は1914年に天に設立されたという教義に一本化

  • 国家・軍・政治・キリスト教会との明確な断絶(中立主義)を強調

  • エホバの証人(Jehovah’s Witnesses)の名称を正式に採用(1931年)

備考

  • この時代から「唯一の真の宗教」という排他的教義が強化される

  • 軍役拒否、国旗敬礼の拒否などにより、世界的に社会的緊張を生む


第3期:ナサニエル・H・ノア時代(1942年〜1977年)

特徴

  • 組織の教育制度の整備と海外布教の拡大

  • 黙示録や預言の体系的再解釈が進む

主な教義動向

  • 1914年を中心とした「終末時計」的教義の完成(「この世の終わりは近い」)

  • 「1914年世代が終わる前にハルマゲドンが来る」との教えが強調される

  • 教義の一貫性は高められたが、同時に予言依存度も高くなる

備考

  • 世界的には急速に信者数を伸ばす時期


第4期:フレデリック・フランツと統治体制時代(1977年〜2000年代初頭)

特徴

  • 組織の支配構造が「統治体(Governing Body)」へと移行

  • 集団指導制により教義と統制の一貫性を維持

主な教義変化

  • 1975年:世界の終わりが来ると期待されたが、これも実現せず

  • その後「時期を示すことは慎むべきだった」という姿勢に変化

  • 終末の「1914年世代」の定義を曖昧化・再解釈("overlapping generations"という複雑な教義が導入される)

備考

  • 教義的には柔軟さを失い、内部批判者に対して厳格な「排斥」制度が強化


第5期:現代(2000年代〜現在)

特徴

  • デジタル化とグローバル戦略

  • 統治体の権威強化と情報統制の拡大

主な教義変化

  • 1914年の教義は維持されつつも、予言的要素は控えめに

  • インターネットやスマートフォンを通じた布教活動にシフト(jw.orgやJW Broadcasting)

  • 「忠実で思慮深い奴隷」は一個人(以前の教義)→統治体全体へと再定義(2012年)

現在の特徴的な教義

  • この世の政府・宗教・経済体制はすべて滅びるとする「大患難」教義は変わらず維持

  • 無血医療、輸血拒否など、倫理的・医療面での教義が社会問題にもなっている

  • 排斥制度、誕生日・祝祭の禁止、他宗教との断絶などによる社会的孤立の助長



「1914年世代」の再定義は、エホバの証人の終末論における中核的な教義の変遷を示すもので、組織内でも重要な転換点とされます。ここでは、その変遷の過程と背景、再定義の内容、問題点について詳しく解説します。


🕰️ 「1914年世代」教義の変遷と再定義

🔹 そもそも「1914年」とは?

  • エホバの証人は、ダニエル書や黙示録などの象徴的な数字(特に「7時代=2520年」)の解釈から、「1914年」をキリストの天における王国統治の開始の年と位置づけています。

  • この年をもって「終わりの日」が始まり、「この世の体制の終わり(ハルマゲドン)」が近づいているとする立場です。


📜 教義の変遷:段階的まとめ

◾️【初期教義】1914年世代が滅びる前に終末が来る(1940年代〜1990年代)

「1914年に生きていた人々の世代がすべて死ぬ前に、ハルマゲドンが起こる」

  • この教義は数十年にわたり、布教の核心として使われました。

  • 具体的には「1914年に物心がついていた人(例:10歳)」が生きている間に世界の終わりが来る、と解釈されていました。

  • つまり、2010年ごろまでにはハルマゲドンが起こると多くの信者が信じていたわけです。

◾️【1995年の変更】「世代」とは生物学的世代ではない

  • 1995年、「世代(generation)」を時間的・象徴的な概念に変更

  • 「邪悪な人々の存在が続く期間」=「世代」という、あいまいで抽象的な定義へと移行

  • この変更は、多くの信者にとって大きな衝撃であり、「終末が近い」との期待に疑問が生じ始めました。


◾️【2010年以降の再定義】「重なり合う世代(overlapping generations)」教義の登場

「1914年に生きていて“油注がれた者”と共に活動していた“別の油注がれた者”も、同じ“世代”に含まれる」

  • **2010年の『ものみの塔』誌(英語4月15日号)**で発表された新しい解釈。

  • これにより、「世代」は単純な一生涯ではなく、「霊的なつながりを持った油注がれた者たちの世代」と定義され、複数の世代が“重なり合う”ことが可能になりました。

  • つまり、「1914年に生きていたAさん」と「Aさんと同時期に活動していたBさん」、そして「Bさんと共に活動しているCさん」も、すべて同じ“1914年世代”に含まれるという理屈です。


🎯 この再定義の狙いと目的

  • 教義の柔軟化と引き延ばし
    → 時間の経過により「1914年世代」はほぼ亡くなっているため、終末の緊迫感を維持する必要があった

  • 過去の予言失敗の修正
    → 外見上は一貫性を保ちつつ、終末の「延長」に対応


⚠️ 問題点と批判

1. 曖昧な定義と論理の破綻

  • 「重なり合う」という概念は主観的で、世代の意味が崩壊していると批判されている

  • もはや年齢や時代の意味を持たず、霊的連携で都合よく定義されているとも言える

2. 信者の心理的負担

  • 長年「間もなく終わる」と信じてきた信者の多くが疲弊し、脱会者も増えた

  • 終末の「先延ばし」によって、個人の人生設計や教育・就職を犠牲にしてきた人々の信仰の動揺を招いた

3. 批判者からの信頼失墜

  • 再定義は「過去の教義を事実上間違っていたと認めたに等しい」との指摘

  • 宗教的権威の一貫性や誠実さに疑問を持つ人が増加


2022年11月9日水曜日

宗教2世問題への視点を整理する

 

 「さよならエホバ」というこの一連のブログの更新は、折りにふれてボチボチやってきたわけですが、2022年現在、事態は大きく動いています。

 

 ご存知のとおり、元首相の安倍さんが、宗教2世によって「狙撃」されて命を失い、それと同時に自民党をはじめとする政治と宗教、とくに「旧統一教会」との癒着がどんどん明るみに出るようになりました。

 

 結果として、狙撃したY容疑者の生い立ちを含めて、カルト宗教を信じる親元で過ごした宗教2世たちが、どのような暮らしをしていたのかなどが、白日のもとに晒されるようになってきたわけです。

 

 Y容疑者の狙撃事件、あるいは安倍さんの死によって、いくつかの段階を経て事態は進展しています。

 

 <第一フェーズ>

  統一教会と自民党の関係について

 ・・・統一教会と持ちつ持たれつで選挙活動を乗り越えてきたり、政策的に近い部分は協力体制があったことが判明。

 

<第二フェーズ>

  統一教会への献金や、悪徳商法と関連して、多くの家庭が悲惨な目にあっていることが改めて浮き彫りになったこと。

 反社会的、不健全な献金・収奪活動に対してのメスが入ろうとしていること。

 

<第三フェーズ>

  統一教会に限らず「宗教2世」が置かれている状況、見過ごされてきた「内部の実態」が明らかになってきたこと。

  この段階で「エホバの証人」などの具体的な団体名称が少しずつニュースやメディアで取り上げられるようになってきたこと。

 

 

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 2022年11月の現段階では、この3つめの段階あたりで事態が動いていて、政府も

 

「違法な献金について、返金が可能になるような制度の創設」「違法な勧誘などの禁止」「宗教2世や、家族への救済制度の想定」

 

などを柱とした対策に乗り出そうとしているわけです。

 

 ただ、まあ、言い方はアレですが、こうした制度を立法する与党には、宗教団体を母体とする「公明党」がいますから、宗教そのものの規制にはなかなか進まないのではないか?とも感じます。

 

 これは個人の感想ですが、「統一教会のみをスケープゴートとして、事態の収束を図りたい」というのが、政府与党の本音ではないかと思われます。

 

 その場合、ここから先が大事ですが、

 

「集金マシンとしての統一教会は、機能を停止させられる」

 

ことはありえるでしょうが、 「エホバの証人」やその他の団体については、どこまで切り込むことができるのか、未知数とも言えるでしょう。

 

 ましてや「創価学会」に対しては、現段階ではあまり話題にも上っていないのが実情と思います。

 

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  なお、この一連のブログは「エホバの証人」に特化した内容を扱っていますから、特に「エホバの証人」関連の視点について押さえておきますが、メディアに対してのアピールは、


「ムチによる虐待」

 

を中心に話が進んでいる最中です。日本は信仰の自由があるため、あまりにも意味不明な教義であっても「それが信仰です」と開き直られると切り込むことが難しいわけですが、

 

「児童虐待が行われている」

 

という一点突破でいけば、 不法行為・暴力行為・人権侵害のどの面でも大手を振って切り込めるテーマになっていると感じます。


 メディアにおける追求は、まずここの点が最初に問題化されてゆくだろうと感じます。



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 さてここからです。


 SNSなどでは、宗教2世のみなさんが、これまでに自分達が体験したことを中心に多くの書き込みがあり、その大半は親や組織、教団を恨むものとなっています。

 

 それに対して、特に宗教2世がメディアなどで体験を発言することに対して、「一方だけの言い分を取り上げるのは不公平である」という意見も出ているようです。

 

 これはまさにそのとおりで、実際には不公平です。私は特定の教団を擁護するものではありませんが、公平なジャッジをまったくの第三者が行ってゆくには、両者の言い分とその齟齬・違っている部分をすり合わせたり、比較したりしてゆく作業は必要だと思われます。

 

 ただし、現段階では、すべてのメディア露出・報道は「裁判の場」ではありませんから、一方的な主張はあって大丈夫です。(もちろん、教団や組織も、一方的に主張してかまいません)

 

 それらのメディア露出が、双方からどんどん出てきてはじめて、最終的なジャッジへと、それこそ「次のフェーズ」移行が進むというわけです。

 

 いまの段階では、お互いにどんどん「不公平な、一方的な主張」を出してゆくべきでしょう。その数が多いほうが、有利になってゆく、そういう部分はあると思います。

 

 

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 では、これらの宗教2世問題、最終的にはどのようにジャッジすればいいのか、という未来の話をしておきますが、

 

 実はこれは難問

 

です。日本の憲法下での解釈においては

 

■ 信教、信念、思い、考えは自由である。

 

ということがまず第一に挙げられています。なので、どのような宗教を信じることも自由です。

 

 つぎに、

 

■ 未成年者の保護監督について、保護者(親)の思想信条を優先することは社会通念上認められる。

 

という点があります。 これは一般的に「親が、自分の考え方で子を育ててもOKである」ということです。


 未成年者については、「保護者」の権限がものすごく強いのが、日本の現状です。

 

  ところが、今ここで「親の思想信条を優先する」ことは社会通念上認められるだろう、とは書きましたが「親の思想信条を、こどもに強要する」ことはどうなんだ?という仮定が登場すると思われます。

 

  先ほどのメディア等に出てくる宗教2世からすれば「私達は親の思想信条を強要された」と捉えているでしょうし、親からすれば「自分たちは良かれとおもって、真理を子供たちにも伝えているのだ」という主張になるでしょう。


 となると、その問題の中核になるのは


「どこからが強要なのか?」

「何をさせれば強要なのか?」


というあたりの定義が、もう少し社会全体のコンセンサスを得なくてはいけない、ということなのでしょうね。

 

 今の段階では、その議論にすら至っていないので、まだスタートラインに立ったばかり、ということです。

 

  その意味では、「法に背いているもの」「不法行為があるもの」については、「逸脱がある、強要している」と言いやすい面はあるでしょう。


 そのもっとも分かりやすい例が「肉体的虐待=ムチ」などです。あるいは「献金」についても、社会通念上理解の範疇の額と、違法性のある額とはまったく異なりますから、ここも線引きがしやすいと思います。

 

 逆に言えば、エホバの証人で言えば「国旗国歌を崇敬しない」というのは、かなりわかりにくいです。

 

 国旗国歌に対して、親は信教の自由をもって崇敬しないというのはわかります。

 けれど、「子供は実は国旗国歌を崇敬したかったのに、できなかった」という実態は、外部から見たら何を言っているのかよくわかりません。

 そもそも、国旗国歌に対しての姿勢は自由に示すことができるのであり、親はそうしています。子は「ほんとうはどうしたいの?どうしたかったの?ということを意思表示した段階で

 

「意思と違うことを強要された」

 

という不法行為が発生しますから、 そもそも「意思そのものが未熟で、よくわからない」段階のこどもについては、現行法のもとでは、うまく処理できません。


 まだ未熟で、判断が難しいだろうということについては、「親がそれを代行する」という保護監督権が認められている以上は、18歳までのこうした事例を取り上げることは、実際には意見がまとまらない可能性があるでしょう。



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「こども意思は、未熟な段階であっても権利として尊重すべきである」


ということをもし認めてしまうと、「お菓子買ってくれなきゃ、ここを動かないぞ~!」とスーパーで暴れている子を、「ダメです!」と引きずってゆくことは

 

「未熟ではあるが、意思表示しているものを否定する強要行為である」


ということになります。この場合、親は罪とされるべきでしょうか?


 残念ながら、現時点での社会通念上の判断からみると、「子供の意思を制限してOKである」ということになってしまうでしょう。

 

 

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 そうすると、これらの議論の中核ポイントは、

 

■ こどもは(18歳よりもある程度低い)何歳の段階で


■ どれほどまでの独立権を有するか


ということを定義してゆく、合意形成してゆく、という話なのだと思います。


(もちろん、これらの話は現段階では完全に白紙です)


 先行事例として、ユニセフなどで定められている「こどもの権利条約」などもあるのですが、条約の中身をよく読むと、

 

■ 5) 親の指導を尊重

■  18) こどもの養育はまず親に責任

 

などが含まれており、「こどもの意思が100%優先される」わけではないことになっています。

 

(もちろん、こどもの権利条約には「思想・良心・宗教の自由」が含まれています)

 

 

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 こうして考えると、現在起こっている宗教2世問題は、「まだ定義の段階から、ほとんど取り上げられていない未知の問題」だとわかります。

 

 そのため、メディアにおいても、あるいはSNSなどの意見においても、まだまだ出てくる情報はバラバラですし、「虐待・暴力」「お金」「強要強制」などの

 

比較的わかりやすい話

 

に、まるめこまれて出てくるようになっています。あるいはビジュアル的に理解しやすい話に落としこまないと、第三者にはさっぱりわからない、ということになってしまうかもしれません。

 

 

 いずれにしても、すべてはスタートラインですから、それぞれはそれぞれの思うことを、自由に表明してゆく段階と思います。

 

 その波がどこへ向かうのかは、実はまだわからないのです。

 

 

 

 


 

 

 

 

2019年12月26日木曜日

エホバの証人と貧困層 ~神の世界では選ばれたかもしれないが・・・・・・~



 このブログの書き手は、中学生の頃には信仰を失っていて、またそれを表明して過ごしてきたため、いわゆる「世の人」として人生の大半を生きています。


 そのおかげで、一般社会における生活は、まあまあ普通の人として不自由なく暮らしているわけですが、SNSなどで現役信者さんや、あるいは、エホバの証人を辞めた方たちの言説を見ていると、いろいろな問題や苦悩を抱えながら暮らしている人が多いように感じます。


 もちろん、私や私をとりまく家族の間で、宗教によって大きな被害がなかったか、と言われればそんなことはないのですが、



(そのあたりの経緯は、


ワッチタワー ~オカンと僕とそれからエホバ~
https://note.com/mukogawa_sanpo/n/n1fa9685cf3cc


という物語に書いています。むちゃくちゃ家庭崩壊してるやんけ!とツッコまれるかもしれませんが(^^;;

 一部有料ですが、いろんな弱者救済の活動資金にいたしますので、それでもよければ)




肝心なことは、大変な状況を経験したとしても



 私が、それをちっとも大変だと思っていない


という事実です。 このあっけらかんとしたところが、私が幸せな理由の一つではないかとも思っています。




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 さて、ちょうど今、ツイッターの機能をつかって、エホバの証人を辞めた方や、辞めようと思っている方へのアンケートを実施しています。

https://twitter.com/mukogawa_sanpo/status/1210085323599826944


Q エホバの証人を辞めた、あるいは脱会を迷っている人で、これに一番困っているということを教えてください。 

A 教義に背いたことや、神・聖書に対する畏怖心や罪悪感

B 信仰を続けている親や元会衆メンバーとの人間関係

C 教義やムチ・虐待による精神的ダメージや心理的な疾病

D 俗世と離れていたがゆえの経済的弱さや自活のしにくさ



 この4つの設問で、実際にどんな問題が重要視されているのかを考えたいわけですが、今の段階ではまだ、お答えを募集しているところですので、みなさんの傾向を分析するのはのちほど、ということにしたいと思います。



 じゃあ、今日のこの記事ではいったい何をするのか、と言えば、 私はとくに何かを参考にして4つの選択肢を作ったわけではないのに、とある別のお話とこの4つの設問が奇妙に符合することに気付いたのです。


 そのお話をしてみようと思います。



 なぜ社会の底辺にいる人は見えないのか
 https://toyokeizai.net/articles/-/318615



 その別のお話というのは、リンク先の記事にも書かれているような、現在のイギリスの階級格差についてのことです。


 今、イギリスでは7つの階級が存在して、それぞれの格差が社会問題を如実に現している、ということが話題になっています。


 日本はまだ、階級社会ではないものの、それに近いような「格差」が生じ始めていることは、 みなさんもご存知のことでしょう。


 
  では、その格差はいったい何によって生じるのか。ただ単純にお金持ちであるかどうか、というわけではありません。



 それは、「引きこもりで無職だけれども、親が大量の不動産を持っていて、何もしなくても生きていける人」を想定すればわかります。彼は社会階層において、上級とはいえないのは、お金だけが指標ではないからですね。



 そこで、社会学者さんたちは、「人」が社会においてどのように位置づけられるかの指標として、次の3つのものを用いるようになってきました。


■ 経済資本

■ 文化資本

■ 社会関係資本


です。


 経済資本は一番分かりやすいお金の話です。貯蓄資産としてのお金もそうだし、次々に入ってくるフロー資産としてのお金も大事ですね。

 文化資本は文化的素養・その社会における教養・学歴・資格・振る舞いや習慣など、文化的に身についている資本を示します。

 社会関係資本は、コミュニティや信頼関係、共同体、人的ネットワークなどです。地域のつながりや親類づきあいなども当然含まれます。




 ここまで読んで「はっ」とした方は、かなり鋭いと思います。わたしも驚きました。


 先ほど私が挙げた4つの質問と、上の3つの資本の話はかなりリンクしているからです。


まず

B の親との関係や、会衆との関係は「社会関係資本」の話だとわかります。

C の健康問題は、3つの資本にはないですが「健康資本」と読み替えてもよいでしょう。

D の経済問題は、そのまま「経済資本」の話です。


そして、

A の教義における罪悪感などは、「一般的な教養の足りなさ」から生じるマインドコントロールの一種です。




 イギリスにおける7つの階級において、「経済資本」「文化資本」「社会関係資本」の3つが不足している層は、まさしく階級の最底辺を意味します。


 お金がなく、学歴や文化的素養がなく、助けてくれるコミュニティや人の関係性が薄い


ということが最底辺につながるわけです。



 これを念頭に置くと、実は宗教に囚われている人というのは、


■ 宗教コミュニティという中にいる限りは気付かないが


■ 一般社会においては、経済的にも文化的にも、人間関係的にもすべてを失っている人たち


であることがはっきりしてきたわけです。



 逆説的には「では、宗教コミュニティの中にいれば安泰か」ということが当然考えとしては浮かぶのですが、実際には



■ そのコミュニティは偽装された幻想のようなもので、実体が乏しい



というのが現実なのではないでしょうか。 



 少なくとも、宗教機能がきちんと動いている組織かそうでないかは、上の3つに当てはめれば答えが自然に出ます。


 たとえば


■ その宗教コミュニティに属している者は、組織からの経済的支えがあるかどうか。

■ その宗教コミュニティは、文化的資本を支援してくれるか

■ その宗教コミュニティは、人的ネットワークを構築しているか



という観点です。


 こうしてみると、出家すると托鉢で食べていける旧来仏教なんかは、システムとして成立していることがわかります。

 お寺や神社が、檀家制度や寄付寄進で成立することも大事なわけです。

 キリスト教会の一部が、炊き出しをしたりすることも、重要なのです。

 あるいは、創価大学や、PL学園のように、宗教が教育施設を運営することも理にかなっているといえるでしょう。

 創価学会などは、内部のネットワークだけでなく、選挙を通じて政治や一般社会とのネットワークを構築しようとしていますから、だからこそ宗教システムとしては大きくなってゆくのです。




 こうしてみると、かつてのように特開者に金銭的支援を出していた時代ならともかく、現在のエホバの証人の組織は、すでに宗教システムとしても崩壊しているといえます。高等教育の否定などは、自滅への加速装置だったとわかりますね。




 信者は



「経済資本・文化資本・社会関係資本」



を全て失うように、おのずと仕向けられているわけです。




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 教義の上では「神に選ばれた選民」として、優越感をもたされているかもしれませんが、その実態は社会学でも明確に定義された


 最底辺の人たち


に相当するわけですから、一刻も早くそこから脱する必要がある、というのが論理的に明解な答えだと思います。


 これから、辞めた人たちにとってはその状況から少しずつ元の生活に戻る、という環境を変えるきっかけや支援が必要になることは言うまでもありません。







2019年3月8日金曜日

毒親に育てられた子と宗教2世が幸せになる方法。



 世の中には、俗世を渡ってゆくための指針やヒントとなる情報がたくさん溢れているのですが、私が


「この人の著作を読んでおけば、きっと役に立つ」


と思っている日本人著述家の一人に橘玲さんという方がいます。


 この方の書いた「言ってはいけない」「続・言ってはいけない」(新潮新書)あたりは、いわゆる俗世でもヒットしてファンがたくさんいますが、エホバの証人だった人が読むと、また違った感覚になって面白いと思います。


 橘玲さんの著作の最近の特徴は、

 
「一般的な常識や、当たり前と思われていることと、実はこの世界の現実やデータにはズレがある」


ということをある程度明確に示すスタイルです。そして、その提示される出来事には、


「かならず、客観的な証拠(エビデンス)が同時に提示される」


ということを心がけておられます。



 これは、いわゆる「宗教」によってもたらされるこの世界の「真理」のようなものに対して、強力な反論・反証になります。



 ただ、橘さんの著作は、そのデータが客観的ゆえに、独特な「冷徹さ」もありますので、それが嫌いだというセンチメンタルな人もいることは否めません。しかし、感情的なものよりも、時には証拠は厳しい答えをつきつけることもあるでしょう。




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 私は、ある意味においては神を信じ、信頼しています。

 とはいえ、また別の意味においては、無神論者のような言動もとるでしょう。



 一見矛盾するかのような話にみえるかもしれませんが、とても簡単で、かつとても冷徹な思考がそこにはあります。



 たとえば、こんな例はいかがでしょう。私達の住むセカイの神は、



「生き物同士が殺しあうことは許可するが、ヒトと猿の間に子ができることは許可しない」



ということを徹底的にルール化しています。


 私達の通常の感覚からすれば、ヒトとネコの間に子ができることよりも、「ヒトが殺しあうこと」のほうがより重要で、ダメなことのように感じます。


 しかし、神は殺し合いを許すのに、ヒトとネコのこどもは許さないし、ヒトと犬もダメだし、ヒトと猿の間ですら、子を作ることを許さないのです。



 神は、このように「善悪、やっていいこととダメなこと」の基準が、ヒトが思っているのとは随分ズレている存在だということかもしれません。


 しかし、神の定めたこのルールブックは、とても厳格で厳密で、破られることがありません。


 わたしは、この絶対的なルールを作った神を「とても面白い存在だなあ」と思っています。





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 橘さんの著作は、これと同じように


「人類にとっては、異種間生殖よりも殺人のほうが、はるかに安易に許されている」


という証拠、エビデンスをつきつけますので、「人を殺すのなんてダメだわ!」と感情的になる人には、向いていません。


 そう!目を背けたくなるような、データがつきつけられる、ということなのです。





 さて、いよいよ今日の話の本題です。



 橘さんの新作である『人生は攻略できる』のあとがきが、出版社の許可を得て公開されていますが、実はここに


「毒親持ちと宗教2世が幸せになる方法」


がズバリ書かれていました。なので、私もぜひ紹介したいと思ったのです。



 しかし、橘さんの本ですから、目を背けたい人には、冷徹で不寛容に感じられる表現も多々あります。でも同時に、それには証拠もある、ということも覚えておいてほしい事柄です。




 幸福に生きるためのヒント (人生は攻略できる) 橘玲
 https://www.tachibana-akira.com/2019/03/11519




 詳細はリンク先を参照ください。ここでは簡単にまとめます。




A


◆ 人間には幸福度が一定になるような反発力がある。

◆ なので不幸になった人も、ある程度期間が過ぎれば幸福感を取り戻せる。

◆ 逆に、幸福になった人も、やがて幸福感を感じなくなる。


→ 人は幸福の水準を持っていて、それは何があっても変わらない。





B


◆ 人間には100倍の法則がある。

◆ やったことは100分の1にしか感じず、やられたことは100倍に感じられるというもの。
 
◆ 加害と被害にはその受け止め方の非対称性があるので、だからセカイには紛争が絶えない。


→ 何か困ったことがあれば友達に相談したり、場所や環境を変えるなど「客観的な視点」を取り入れて考え直してみよう。





 いくつかの話の中に出てくる、AとBの二つの話が、毒親持ちと宗教2世に関わる部分です。



 まずはAについて。


 毒親持ちと宗教2世は、生まれた時からそれぞれの親や特殊な環境で育っているため



「幸福の水準」がすでに定まっている



ことがほとんどです。 だから、外の社会に飛び出したり、親の支配を離れて新しい生活をしようと思っても、すぐにはいわゆる


「ほかの人たちの言う幸せ」


 がよくわからないし、それに向かって頑張るということもよくわからないままで過ごします。



 だから社会とのズレを抱えたままで、幸せになるということそのものが、いまいち理解できないまま悶々と日々を過ごしているのではないでしょうか?




 そしてBです。



 毒親持ちと宗教2世は、親から受けた被害や「してもらえなかったこと・されたこと」を100倍に過大評価します。



  ですから、他者と話をしても「それくらいのこと!」と簡単に受け流されて、たいへんに苦しかったり悔しい思いをしますが、それは



 永遠に他者には理解してもらえません。なんせ100倍に倍増しているから



です。


 この「自分は理解してもらえない」とか「他人にはどうせわからない」とか「宗教2世以外には理解されない」といった感覚を持ち続けると、それは身を滅ぼすということです。


 その感覚が、100倍に膨れ上がっているかもしれないと、まずは冷静になること


 から始めないと、永遠にあなたは理解されず、永遠に幸せなんてやってこないことになるのです。


 これはとても恐ろしいことです。





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 AとBはものすごくみなさんには都合の悪い話だと思います。


 自分は大変な目に遭った!


と誰もが思っているし、


そもそも知っている幸せのレベルが低い


と言われたら憤慨してしまうことでしょう。



 しかし、実際に結果的に幸せになる人、幸せを掴む人というのは、そんな過去を笑い飛ばし、新しい幸せの基準を手に入れていることになります。



 このギャップを埋めるのは、正直しんどいことだと私も同感します。



  しかし、橘さんの文章をよく読むと、いくつかの解決法も提示されていることがわかります。その解決法は



◆  出来事の体験を積み上げる。印象的な体験をたくさん積み上げることで、脳は美化された記憶をたくさん作り出す。

◆ ちょっとぐらい嫌な体験でも、それも復元力によって美化されるので、恐れず体験を増やす。



ことがその一つ目です。



 二つ目は、


◆ 物理的な場所を離す。(旅に出る、引っ越す、親から離れる)


◆ 客観的で、利害関係のない友人などに相談する。(おなじ境遇の人と相談する場合は、被害感情が増幅する恐れがあることを理解しておく)


ということです。




 毒親育ちや宗教2世が、このセカイで幸せに暮らしている人は、これらがきちんと身についていることが多いように感じます。





 繰り返しますが、大切なのは



「新しい体験、新しい経験をどんどん外に出てやってみること」


「自分の過去の体験をそれは他人にとっては(あるいは自分にとっても)100分の1程度のことだった、と過大評価しないようにすること」



の2つです。



 ご参考になさってください。








2018年11月6日火曜日

外国での奉仕活動における悲しい出来事について



 グアテマラに奉仕活動に行っていた若い姉妹が強盗被害に遭い、1人は亡くなられたというニュースを聞き、心を痛めているところです。


 亡くなられた方、そして被害に遭われた方には、心より哀悼の気持ちを持っています。



 しかし、この事件については、ツイッターなどでみなさんの意見を読んでいると、いろいろな受け止め方があるように思います。


 客観的には、この「受け止め方」によって、エホバの証人を辞めた方のそれぞれの現在の状況や、あるいはその傾向、性格、思考パターンなどがにじみ出てくるものとなっていることに気付かされます。


 ツイートなさっている方は、そこまで自分の傾向について感じていないかもしれませんが、少し自分を客観視することで、エホバの証人から離れた後の世界観の構築に役立つ場合があるかもしれません。


 なお、これから書くことは、特定の個人の考え方について、批評批判するものではありません。全体の傾向、おおきな受け止め方の類型としてお話します。





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■ 事件を知って、「自分もそうなったであろう」と感じる人


 私も海外ではありませんが、国内でいわゆる「必要とされる場所」へ移動しての伝道活動に従事したことがあります。

 元エホバの証人のみなさまにおいても、海外で活動した経験がある方も、少なくはないようです。

 こうした人たちは、ふだんの日常生活から離れて、ある意味、信仰や教義において、「そこへ行き、活動する」という覚悟を一度は持った方でしょうから、「それが結果的に妄信に過ぎなかった」かどうかは別にして、宗教の論理については一定の理解と共感を有していると考えます。


 この時に「自分もおなじ事態に遭遇したであろう」と想像することはごく自然なことだと思います。


ところが、現在こうした人たちは「もはやエホバの証人ではない」わけですから、海外などでの伝道活動に行ってしまう気持ちも理解しながら、今から振り返ってみると「それは恐ろしいことだったのだな」という気付きも得ていることになります。


 この「理解できる気持ち、あるいは自主的に行ってしまう気持ち」と「それがいろいろと問題や危険を内包する行為だったと振り返る気持ち」の2つが同時にやってくるわけですから、一言で説明できないような「複雑な心境」になる、ということかもしれません。


 
 私は、こうした視点は重要だと考えています。この2つが合い反する感情の中で、こちらのセカイでどのように生きていくかを自問してゆくことや、あるいは2つの立場を客観視してゆくこと、相対化してゆくことは、新しい人生を送るカギとなると考えます。








■ 「そんなところに送るのは、組織にも責任がある」と考える人


  危険な地域や、困難な地域での奉仕活動を行うのは、自己責任でしょうか。それとも、そうしたところでの活動を推奨する組織の責任でしょうか。


 答えは、「どちらにも責任がある」ということだと思います。


 そのため、当然ながら組織にも責任があります。そして、行った人にもそれ相応の責任と覚悟が必要なことでしょう。


 オウム真理教の事件で、教祖と信者はテロ行為を行いました。かの事件では当然、教祖にも責任があるし、実行犯にも責任があります。そしてその通りにどちらも刑死という形で責任を取らされました。


 ですので、どちらにも責任がある、ということそのものは事実であり、まったくもってその通りですが、もし、それを発言する人の心の中に


「だまされて行っているのだから、本来は組織がとても悪いはずだ」

「組織はそうならないように注意すべきだ」

「どうしてこの件について組織はコメントをしないのか」


といったことが思い浮かぶのであれば、少しだけ注意が必要な状態にある、と気をつけたほうがいいかもしれません。


 なぜ、そんなことをお話するのかといえば、次の例を考えてみましょう。


「オレオレ詐欺グループがいて、その組織の上部から、末端の受け子に向かって『さあ、老人からお金をとってこい』という命令が発せられ、その通りに受け子が実行した」


 とします。当然のことながら、組織の上部も受け子も、犯罪者です。どちらにも責任があります。


 さて、この時


「受け子はだまされているので、本来は組織が悪いはずだ」

「組織はそんな悪事をさせないようにするべきだ」

「組織は受け子が捕まったことに対してコメントをするべきだ」


と考えるならば、少し、というか、かなり変な考え方をしていると気付くことになります。



 エホバの証人の組織と、悪の組織と、構造は同じです。つまり、エホバの証人はもともと一般常識や責任を取るといった事柄とは


「かけ離れた・逸脱した」


行為を行っている(それが信仰というもの)なのですから、逸脱している人に向かって「責任を感じないのか!感じるべきだ」というのは、それを主張することは、無駄ではないにしろ


たぶん、それ自体は無意味


であろう、ということなのです。そもそも組織とは、無責任な存在なのですから。




 そうではなくて、一般の人たちからみれば「組織も当然怖い」ことは普通ながら、「実際にそこへ行ってしまう末端の信者も怖いしヤバい」と感じるのが当然なのです。


 つまり、最初に戻りますが、どちらも同罪です。


 ですから、もしこの件について、組織の責任についてとても気になる人がいるとしたら、その人には


「自分(側)の責任として自覚する気持ちが弱いか、他者に責任を持ってもらいたいという依存傾向がある」


ということに注意なさるとよいと思います。



あるいは


「エホバの証人の組織がまともであってほしい」

「まともな組織になってほしい」


という願望がどこかに隠れているのかもしれません。






☆ もし「伝道活動は悪いことではない、悪事を行っているわけではないので、伝道者は悪ではない」という思考パターンの人がいるとすれば、その方はまだ洗脳が残っている可能性があります。


「伝道活動は、組織と一緒に行っている悪事である」


という視点を一度持って、捉えなおすと違う考え方が生まれるかもしれません。











 ■ 殉教は、ある意味幸せだったのではないか、と感じる人


  自分が自分で物事を決定し、自らの信念によってそれに添って生きてゆき、その結果として残念ながら非業の死を遂げた、ということは


「自分の信じるものに一生を捧げた」


ということになり、それはそれでひとつの幸せの形だという考え方です。


 今回、私達は宗教について考えているので、どうしても意見がひねくれてしまいますが、


「芸術に一生を捧げて、芸術の途上で非業の死を遂げた」


とか


「作家が文学に苦悩に苦悩し、あるいは自殺した」


とか、そういう事態であれば「それはその人の生き方として、仕方がなかったのではないか」と感じる部分もあると思います。



 なので、こうした視点で物事を捉える人は、基本的には「相手の立場を重んじる」タイプであると思います。


 となると、同時にこうした人は「彼の世界は彼の世界」「わたしの世界はわたしの世界」であると、なってしまうので互いに干渉しません。


 干渉しないわけですから、こうした考えの人たちとは、議論論争には、基本的にはなりにくいと言えるでしょう。


 ただ、今回の問題については、「そもそもその信じるところが事実として正しいことに基づいているかどうか」については、ひっかかりを誰もが覚えるところです。



『そもそもエホバの証人の教えが正しいのであれば、それはそれで幸せなのかもしれないが、教えが間違っていたのなら、無駄死にになってしまう』


という意見があるということですね。




 しかし、これまた踏み込めない領域があることも事実です。


「何が正しいか、何が間違っているかを判断することは、他人ではなく自分にこそある」


ということもまた事実だからです。



 わたしたちは、自分の親しい人にできるだけ真実に基づいて何かを判断したり、信じてほしいと願っており、そのために行動することはいくらでもできますが、最終的に何かを決めるのは



「その人」



にしかできないことです。



 自分の生き方は、自分しか決められない



これは人類普遍の真理かもしれません。





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 この事件については、多くの人が、痛ましい出来事ゆえに


「そのままのストレートな感情」


をコメントとして表出しています。だからこそ意見の違いがはっきり現れます。



 あるコメントがよくて、あるコメントが悪いといった問題ではまったくありません。



 自分と異なる受け止め方をしている人がいれば、そうした意見を見聞きしながら、自分の生き方について考えるヒントとできればよいのではないかな、と感じます。








2018年10月11日木曜日

エホバの証人を辞めてからの生活再建について ~ 2世信者を中心に ~



 私自身は、エホバの証人を中学生時代に辞めているので、現在40代半ばの人生においては、かつての経験や記憶が自分自身を苦しめることは



 全くない




のですが、ツイッターなどで多くの「エホバの証人を辞めた方」や「元2世」の方の心情などを伺っていると、まだまだ心にいろいろなモヤモヤを抱えている方が多いように感じます。




 そうした方の「生活再建」はどうしたらいいのか、ということを近年は常に考えているのですが、それは、私がJWの呪縛から脱した先達として、なにがしかのおみやげを残せたらよいなあと考えているからです。




 さて、最近宗教2世が自立する優先順位として以下のような内容を挙げました。

 

 ① 経済的自立 職業と住居の確立

 ② メンタルの安定

 ③ 教義に対する自分なりの反証や否定

 ④ 親への意思表明や反論・説得



  この内容をお話した時には、


 順番を間違うとうまくいかないよ


という意味でツイッターなどには書いたのですが、特に2世信者の場合は日常の多くが



 親との軋轢



に終始してしまう恐れがあるため、特に④などを先に持ってくると大変なことになるのが目に見えているというわけです。




 理想的な宗教との離れ方としては



「就職や進学などで自立・1人暮らしができるチャンスを見計らって物理的に離れる」


「できれば経済的に自活できるとなおよい」


「結婚して配偶者とともに生活をはじめるのも可」


 が、第一段階だと思います。



 次に「メンタル」の安定を取り戻す方法ですが、大事なポイントとしては



「今、現実問題として自分が何に不安を感じているのか」


「自分をとりまく何が問題や課題なのか」


 を明確にして言語化できるほうがいいです。



  これが漠然とした「生に対する不安感」のようなものだけでは、援助者や何かの制度などを利用するにしても、どうサポートすればいいのか不明瞭になってしまう場合があるでしょう。



「何か人間関係を中心としたものなのか」


「教義とリンクする罪悪感などなのか」



などを、少しでもいいので具体化するとよいでしょう。





 その上で、それぞれの宗教に対する教義へ反論することはいくらでもできるでしょうし、ネットなどにはその材料や証拠となる証言や事実もたくさん転がっています。


 この部分は一度理解が進むと、どんどん「宗教の教義」の矛盾が溢れてくることと思います。






 最終的に、親とどう向き合うのかは、家庭の事情や状況によっても異なります。自分の心身の安定を手に入れた上で



「もはやあえて向き合わない」



という選択をすることも可能なのですから。





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  宗教に囚われてしまう根本原因として、最近気付いたのは



「無教養が、宗教に陥れられてしまうひとつの原因」


だということです。



 たとえばオウム真理教などのように高学歴でもカルトに入ってしまう人たちはたくさんいますが、彼らは


「知識や学歴はたくさん有していても教養がなかったのではないか」


 ということができるでしょう。



 知識や学歴は、情報の量や質の単純な積み重ねです。


 しかし教養は、情報同士がシナプスのようにネットワーク化されて、自由自在に繋がることを意味します。


 教養があると「あれ?これはこの問題と似ているな」とか「これとこれが矛盾するのでは?」という「おかしな点」にいち早く気付くようになります。


 このセカイでおきていることと、どこかの宗教が言っている内容が本当に合致するかどうかは、教養によって



検証することができる



というわけなのです。




 もちろん宗教2世は、不幸なことに「無教養になるように育てられる」ことが多いです。


 情報の量や質も制限され、それが他の事象とどのように関わるかを考えることすら「止められて」しまうことでしょう。


 こうした状態になった人たちを「教養」の世界に引き戻すには、たいへん時間とコストがかかります。



 それは、いわゆる一斉授業のような知識伝達ではなくて



「その人の見えている世界と、事実や知識との間に関係性を生じさせてゆくような伝達」


が必要になるからです。



 簡単に言えば、ソクラテスがやったような「対話的な・質問的な手法」が必要になるかもしれません。



 エホバの証人のたとえでいえば、



「個人研究してしまった分の時間だけ、逆の個人的対話」



が必要になるのかもしれない、ということです。




 私は元高校教員ですので、教育に関してはプロですが、こうした問題に関しては、とても複雑で簡単ではないと覚悟しながらこれを書いています。




 



2018年9月15日土曜日

エホバの証人の不可思議な信仰スタイル ~その善、その正義、に幅がある理由~





 このブログは、主にエホバの証人を辞めた人、もしくは「辞めよう」と思っている人が多く訪れるブログだと意識していますが、仮にあなたがエホバの証人を辞めた元信者さんだったとしたら、覚えておいてほしいことが一つあります。



 それは




 この世界は、


「神を信じるか」


「人を信じるか」


「自分を信じるか」
 

の3通りの生き方しかないのだ、ということです。




 欧米社会の多くの人たちにとっては「神を信じる生き方」というのはデファクトスタンダードです。科学技術が発展した現在であっても、自分の生き方の芯に神を置いている、という人たちはたくさんいます。


 イスラム圏の人たちなどまさにそうで、「神を信じる生き方」に背くことはありません。(ただし、それをどのように表現するかでテロが起きたりするわけです)



 また、資本主義と共産主義、あるいは封建主義やリベラリズムなどのいわゆる「主義」と称するものは、


「神なき世界にあって、人はどのように生きることが善で義なのか」


を追求するものです。これらの生き方は「人は最終的にはよくあろうとする、もしくは、人は良くあらねばならない」という人類の英知を大きく信じるところから始まっています。




 そして、それらに失望したものは、最終的には「自分はどう生きるか」ということを問わざるを得ません。頼むことができるのは、もはや自分自身のみ、ということです。





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 エホバ、という神に背いた私やあなたは、もはや「人を信じるか」「自分を信じるか」の2通りの行き方しかないわけです。


 私は、基本的には「自分を信じる」という生き方を貫いていますが、 「人を信じる心」も持ち合わせているので、こうして不特定多数の誰かにもお話を書いています。




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 さて今日のお話は、ここから少し発展して、エホバの証人の奇妙な教義について考えてみましょう。


 私は、彼らの説くひとつひとつの協議や励行事項、禁止事項を取り上げてそれをどうこういうつもりは全くありません。


 そこではなく、



「いわゆる教祖がいないので、これが善でこれが悪であるという絶対的線引きがなく、ブレる」


というところや、


「具体的なように見えて、実は抽象的な戒律によって、誰もその真実を知らない」


というところに注目したいのです。



 最初の話である「神を信じる」スタイルの宗教であれば、たとえば天理教の中山みきさんのように、

「神とされるものからヨリシロを通して直接ことばが伝えられる」

ということがあります。


 幸福の科学の大川隆法さんも、そのスタイルです。いろんな神や聖人が、彼に降臨してその口から話す、ということになっています。




 「人を信じる」スタイルの宗教は、鎌倉仏教などではこの手法が際立っていました。神仏を信仰するのだけれど神仏そのものは何も言わず


「念仏が絶対なんだ」


とか


「お題目こそすべてだ」


とか


「宗教者の独自のスタンスや教えに従ってゆく」


スタイルがあるわけです。




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 さて、エホバの証人の場合は、「聖書に書いてあること」を主としながらも、実はその実行においてはかなりブレがあります。


 血を避けることに関してはかなりナーバス(神経質)ですが、ヒヅメがある動物やない動物の禁忌については無頓着です。


(このあたりはハラールを厳格に守るイスラム教徒や律法を守るユダヤ教徒のほうが真摯です)




 妻は夫に従うことと、世の人である夫をさげすむこととどちらが順位として上か、実は決まっていません。


 なので、あるときには「夫には従順であれ」というし、「悪魔には従うな」ともいいます。



 日々の信仰と、それにともなう生活の上では、こうしたちょっとした矛盾はたくさん出てくるので、現役の信者においても、こうした問題は少しずつ積み重なってゆきます。



 思春期の男女であれば、性について関心を持つこともあるでしょうが、聖書にはオナニーするとアウト!と書いてあるのに、オナニーの翌日に奉仕活動だっていけちゃうわけです。



 統治体のメンバーであったレイモンド・フランズの告白本「良心の危機」は、究極的にはこうした矛盾をついたものでした。


 この書物の中には、

「A国で迫害をうけていた会衆の仲間は、うそ偽り無く信仰を全うして弾圧を受けていた」


のに対して


「B国での会衆の仲間は、信仰を偽装して当局の弾圧を逃れていた」


ことがあり、それが両方統治体にどうすればいいか問い合わせが挙がってきているのに、統治体は


「答えを出さず無関心であった」


ことから、彼の信仰はゆらぎはじめたといいます。





 エホバの証人の教義は、おそらくすべてが万事この調子で、



「神は明確な答えを出さない」





「人である統治体も明確な答えを出さない」



のです。




「そこはほれ、自分たちの心で考えて、行動しなさい。神がみています」



と言うのみだったりします。



 つまり、信者は、聖書の内容と会衆の雰囲気と、与えられる出版物から



「忖度して生きてゆけ」



ということになるのです。


 これはある意味、ものすごく無責任な話で、行動する信者ひとりひとりですら、その行動の原理、理由を明確に責任をもてない、という意味ですごいことです。





 そのため、会衆の構成員には、いろいろな人が生じます。



A■ 世の人である夫にも従順で、真摯に聖書の教義について守ろうとする姉妹


B■ 世の人である夫をサタンだと陰口をたたきながら、「わたしは奉仕を頑張っている」とうそぶく姉妹


A■ 親子そろってエホバの信仰を守りながら従おうとしている長老家族


B■ なんで親はこんなに変なのかと思いながら友達もできず学校にもいきたくない長老の子




 
  おなじ信仰を抱いているはずなのに、メンバーの実態がこんな不思議な分かれ方をする宗教も珍しいのではないでしょうか。


 


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 こうしたことから、特に冷静に事態を見つめている2世からの視点では


A「エホバの証人は基本的にはいい人が多かったよ」


という温かいまなざしをもつ者と


B「エホバの証人は全員クソ野郎ばかりだった」


という恨みと呪いにも似た感情を抱く者に分かれます。




 このAジャンルの人たちとBジャンルの人たちは、なかなか分かり合うのが難しいかもしれません。




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 すべての根源は、





「神が、そして人が、『これが善でこれが悪である』ということを首尾一貫して矛盾無く語ろうとしない





ことにあります。





 神が明確に語ってくれるなら、これは簡単なことで、表面だけとりつくろって奉仕にいそしむ嘘つき姉妹は塩の柱になっていることでしょう。 



 毎週毎週、王国会館で塩の柱が増えてゆくのであれば、わたしたちはガクブルで、大真面目に神に忠誠を誓うことでしょう。


 瞬間でもよこしまなことを考えたら、命はないのですから。





 あるいは教祖がいる宗教のように、



「おまえには災いが起こるだろう!」



とバチッと言ってくれてもいいのです。それはそれで、信仰を強固なものにする基盤として生きてきます。




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 しかし、あいかわらず神は何も言わず、会衆も実はむにゃむにゃしているだけなのです。


 

 だったら、最初の話に戻りますが。残りは「自分を信じるしかない」のではありませんか?





 そういう意味では、私は「エホバの証人」という組織から離れて



「自分と神と1対1で直接対話をする」


というのはアリだと思っています。



 あなたと神との個人的な関係から、あなたがどう生きるべきかを再構築すれば、少なくともあなたの人生の責任を果たすことはできるでしょう。



(なので、エホバの証人を辞めようと思っている人に「エホバを捨てろ」ということは私は言いません。


神とは何か、どういう存在かを最初から問い直してみれば?とお勧めするのです)