「さよならエホバ」というこの一連のブログの更新は、折りにふれてボチボチやってきたわけですが、2022年現在、事態は大きく動いています。
ご存知のとおり、元首相の安倍さんが、宗教2世によって「狙撃」されて命を失い、それと同時に自民党をはじめとする政治と宗教、とくに「旧統一教会」との癒着がどんどん明るみに出るようになりました。
結果として、狙撃したY容疑者の生い立ちを含めて、カルト宗教を信じる親元で過ごした宗教2世たちが、どのような暮らしをしていたのかなどが、白日のもとに晒されるようになってきたわけです。
Y容疑者の狙撃事件、あるいは安倍さんの死によって、いくつかの段階を経て事態は進展しています。
<第一フェーズ>
統一教会と自民党の関係について
・・・統一教会と持ちつ持たれつで選挙活動を乗り越えてきたり、政策的に近い部分は協力体制があったことが判明。
<第二フェーズ>
統一教会への献金や、悪徳商法と関連して、多くの家庭が悲惨な目にあっていることが改めて浮き彫りになったこと。
反社会的、不健全な献金・収奪活動に対してのメスが入ろうとしていること。
<第三フェーズ>
統一教会に限らず「宗教2世」が置かれている状況、見過ごされてきた「内部の実態」が明らかになってきたこと。
この段階で「エホバの証人」などの具体的な団体名称が少しずつニュースやメディアで取り上げられるようになってきたこと。
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2022年11月の現段階では、この3つめの段階あたりで事態が動いていて、政府も
「違法な献金について、返金が可能になるような制度の創設」「違法な勧誘などの禁止」「宗教2世や、家族への救済制度の想定」
などを柱とした対策に乗り出そうとしているわけです。
ただ、まあ、言い方はアレですが、こうした制度を立法する与党には、宗教団体を母体とする「公明党」がいますから、宗教そのものの規制にはなかなか進まないのではないか?とも感じます。
これは個人の感想ですが、「統一教会のみをスケープゴートとして、事態の収束を図りたい」というのが、政府与党の本音ではないかと思われます。
その場合、ここから先が大事ですが、
「集金マシンとしての統一教会は、機能を停止させられる」
ことはありえるでしょうが、 「エホバの証人」やその他の団体については、どこまで切り込むことができるのか、未知数とも言えるでしょう。
ましてや「創価学会」に対しては、現段階ではあまり話題にも上っていないのが実情と思います。
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なお、この一連のブログは「エホバの証人」に特化した内容を扱っていますから、特に「エホバの証人」関連の視点について押さえておきますが、メディアに対してのアピールは、
「ムチによる虐待」
を中心に話が進んでいる最中です。日本は信仰の自由があるため、あまりにも意味不明な教義であっても「それが信仰です」と開き直られると切り込むことが難しいわけですが、
「児童虐待が行われている」
という一点突破でいけば、 不法行為・暴力行為・人権侵害のどの面でも大手を振って切り込めるテーマになっていると感じます。
メディアにおける追求は、まずここの点が最初に問題化されてゆくだろうと感じます。
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さてここからです。
SNSなどでは、宗教2世のみなさんが、これまでに自分達が体験したことを中心に多くの書き込みがあり、その大半は親や組織、教団を恨むものとなっています。
それに対して、特に宗教2世がメディアなどで体験を発言することに対して、「一方だけの言い分を取り上げるのは不公平である」という意見も出ているようです。
これはまさにそのとおりで、実際には不公平です。私は特定の教団を擁護するものではありませんが、公平なジャッジをまったくの第三者が行ってゆくには、両者の言い分とその齟齬・違っている部分をすり合わせたり、比較したりしてゆく作業は必要だと思われます。
ただし、現段階では、すべてのメディア露出・報道は「裁判の場」ではありませんから、一方的な主張はあって大丈夫です。(もちろん、教団や組織も、一方的に主張してかまいません)
それらのメディア露出が、双方からどんどん出てきてはじめて、最終的なジャッジへと、それこそ「次のフェーズ」移行が進むというわけです。
いまの段階では、お互いにどんどん「不公平な、一方的な主張」を出してゆくべきでしょう。その数が多いほうが、有利になってゆく、そういう部分はあると思います。
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では、これらの宗教2世問題、最終的にはどのようにジャッジすればいいのか、という未来の話をしておきますが、
実はこれは難問
です。日本の憲法下での解釈においては
■ 信教、信念、思い、考えは自由である。
ということがまず第一に挙げられています。なので、どのような宗教を信じることも自由です。
つぎに、
■ 未成年者の保護監督について、保護者(親)の思想信条を優先することは社会通念上認められる。
という点があります。 これは一般的に「親が、自分の考え方で子を育ててもOKである」ということです。
未成年者については、「保護者」の権限がものすごく強いのが、日本の現状です。
ところが、今ここで「親の思想信条を優先する」ことは社会通念上認められるだろう、とは書きましたが、「親の思想信条を、こどもに強要する」ことはどうなんだ?という仮定が登場すると思われます。
先ほどのメディア等に出てくる宗教2世からすれば「私達は親の思想信条を強要された」と捉えているでしょうし、親からすれば「自分たちは良かれとおもって、真理を子供たちにも伝えているのだ」という主張になるでしょう。
となると、その問題の中核になるのは
「どこからが強要なのか?」
「何をさせれば強要なのか?」
というあたりの定義が、もう少し社会全体のコンセンサスを得なくてはいけない、ということなのでしょうね。
今の段階では、その議論にすら至っていないので、まだスタートラインに立ったばかり、ということです。
その意味では、「法に背いているもの」「不法行為があるもの」については、「逸脱がある、強要している」と言いやすい面はあるでしょう。
そのもっとも分かりやすい例が「肉体的虐待=ムチ」などです。あるいは「献金」についても、社会通念上理解の範疇の額と、違法性のある額とはまったく異なりますから、ここも線引きがしやすいと思います。
逆に言えば、エホバの証人で言えば「国旗国歌を崇敬しない」というのは、かなりわかりにくいです。
国旗国歌に対して、親は信教の自由をもって崇敬しないというのはわかります。
けれど、「子供は実は国旗国歌を崇敬したかったのに、できなかった」という実態は、外部から見たら何を言っているのかよくわかりません。
そもそも、国旗国歌に対しての姿勢は自由に示すことができるのであり、親はそうしています。子は「ほんとうはどうしたいの?どうしたかったの?ということを意思表示した段階で
「意思と違うことを強要された」
という不法行為が発生しますから、 そもそも「意思そのものが未熟で、よくわからない」段階のこどもについては、現行法のもとでは、うまく処理できません。
まだ未熟で、判断が難しいだろうということについては、「親がそれを代行する」という保護監督権が認められている以上は、18歳までのこうした事例を取り上げることは、実際には意見がまとまらない可能性があるでしょう。
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「こども意思は、未熟な段階であっても権利として尊重すべきである」
ということをもし認めてしまうと、「お菓子買ってくれなきゃ、ここを動かないぞ~!」とスーパーで暴れている子を、「ダメです!」と引きずってゆくことは
「未熟ではあるが、意思表示しているものを否定する強要行為である」
ということになります。この場合、親は罪とされるべきでしょうか?
残念ながら、現時点での社会通念上の判断からみると、「子供の意思を制限してOKである」ということになってしまうでしょう。
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そうすると、これらの議論の中核ポイントは、
■ こどもは(18歳よりもある程度低い)何歳の段階で
■ どれほどまでの独立権を有するか
ということを定義してゆく、合意形成してゆく、という話なのだと思います。
(もちろん、これらの話は現段階では完全に白紙です)
先行事例として、ユニセフなどで定められている「こどもの権利条約」などもあるのですが、条約の中身をよく読むと、
■ 5) 親の指導を尊重
■ 18) こどもの養育はまず親に責任
などが含まれており、「こどもの意思が100%優先される」わけではないことになっています。
(もちろん、こどもの権利条約には「思想・良心・宗教の自由」が含まれています)
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こうして考えると、現在起こっている宗教2世問題は、「まだ定義の段階から、ほとんど取り上げられていない未知の問題」だとわかります。
そのため、メディアにおいても、あるいはSNSなどの意見においても、まだまだ出てくる情報はバラバラですし、「虐待・暴力」「お金」「強要強制」などの
比較的わかりやすい話
に、まるめこまれて出てくるようになっています。あるいはビジュアル的に理解しやすい話に落としこまないと、第三者にはさっぱりわからない、ということになってしまうかもしれません。
いずれにしても、すべてはスタートラインですから、それぞれはそれぞれの思うことを、自由に表明してゆく段階と思います。
その波がどこへ向かうのかは、実はまだわからないのです。